「生物(いきもの)としての静物」開高 健(集英社)

Category : 100円本雑読乱読
かいこう

モノを持たないことをモットーにしている人。
実に羨ましい限り。
果たして僕はといえば、煩悩にまみれた俗物の一個として
モノが好きで、そのモノとの“まつわり方”が好きな一人である。
しかし、かつてのフリーランス時代、一日のほとんどを過ごした
この仕事部屋をぐるりと眺め回しても、大したモノはここにはない。
天井までのびっしりの本も、最近では古本の数が勝っているし、
無印の棚にこれまたびっしりのジャンクも
どこへ持っていっても売れそうにもないものばかり。
目の前のNew Miniのミニカーたちも
実車を手放してからは懐かしいばかりで見る度に小さくため息。

さて、著者である開高 健の、モノへの愛すべき執着心とは、
そのモノとの濃密な時間の共有に他ならない。
仮にここがストンと抜け落ちていたらただの“マニア”でしかない。
金にあかせてせっせと買いそろえる、アレである。

序章ともいうべきタバコについてのエッセイの締めくくりを
そっくりそのままご紹介しよう。
「この一本の煙りからおびただしいものがたちあらわれる。
8月15日の明るい静寂や、闇市の叫喚や、飢えの冷たい悪寒、
毎日毎日の彷徨、血液銀行の行列、そして亜熱帯の朝のタマリンドの並木道、
銃声、歩道いちめんに散ったガラスと血、夜明けの市場での銃殺、
アフリカの雨、ハゲワシの巨大な石灰質のくちばし、
餓死瞬前の黒い子供のマッチのような手と足、
ゴースト・タウンにひびく若い娼婦の溌剌とした声、
また、暗いジャングルや、M16銃の連射音なども…
煙が目にしみる。というわけだ。」

どうですか、この“おびただしいもの”、この魑魅魍魎たる事象の数々。
煙の向こうに見えるこの光景を開高はさらっと書きなさる。

本書の冒頭の一文、
「長い旅を続けて来た。
時間と空間と、生と死の諸相の中を。
そしてそこにはいつも、
物言わぬ小さな同行者があった。」

これほどに心身に密着した同行者と呼べるモノを
僕たちはどれほど知っているか、また持っているか、そして持ってきたか…
ここに上がったモノたちは、さほど今の人たちには縁があるとは思えない。
ことにタバコに関してはなおさらである。
タバコも我が身がこれほど忌み嫌われる対象となることを予測できなかったに違いない。
くゆらす煙の中につかの間の句読点を求め、
「暗闇の中で吸うタバコほどまずいものはない」という開高の価値観は
今となってはもはや遠い彼方に葬り去られた、しかし男の憧憬とも言えるものである。
なんだかタバコのことばかり書いているが、
本書はパイプ、オイルライター、ナイフ、ジーンズ、レザーのベルト、
モンブラン万年筆、蚊取り線香、帽子、懐中時計、ビーフ・ジャーキー、
正露丸、グラス(!)、釣り師のバッグなどについて
僕などから見れば究極の、そして自然体のエピキュリアンであった開高の
無邪気な執着の有様が、そのまたかけがえのない事実(背景)をおかずに
延々と語られる。
何よりも本書を魅力的なものに仕立て上げたのが
滝野晴夫の挿画であろう。
暗闇から立ち上ってくる妖気さえ、対象となるモノたちから漂う。
なんと贅沢な組み合わせだろう。

ウイスキーを傾けながら読める本というのはそれほどない。
本書はまさにそんな夜の友が欲しくなるエッセイだ。
登場するどのモノにも興味がないという人にこそ読んでほしい。
苦くて、まろやかで、痛みの伴うモノたちとの旅は
引き出しから棚からあるいは箱から氏の手の飢えにお出ましになって、
再び鈍い光を放つのだ。
そんなモノとのつきあいができるのは
オタクでもマニアでもない。
女性が見たら引きそうな光景かもしれないが
そんなモノたちにグラスを傾けながら語りかけるオトナが居たって
いいじゃないか、と思うこの頃である。

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「 美術家になるには 」村田 真 著(ぺりかん社)

Category : 100円本雑読乱読
美術家

冗談か、斜に構えた内容か、もっと言えば揶揄した本か…と思いきや、
「将来何になりたいか?」いろいろな疑問に答える職業案内シリーズです、とある。
「なるにはBOOKS」という現在まで150巻出揃っている新書で、
最終的には180巻以上の職業を網羅する予定のようだ。
どのような道筋、手立てを経て“少年少女”が憧れる
(せめてこの頃は、ああなりたい、こうなりたいと勝手な妄想を膨らませて欲しいね)
職業に就くことができるかを、至ってわかりやすく解説したものなのだが、
…なのだが…さて、職業とは何だろう?
そう、この定義づけについてはそれぞれに温度差があるし、経験値や年齢に準じて
考え方も価値も違うし、また既婚未婚でも主旨は異なる。
食べていくためにする(べき)仕事、という基本に立ち返ってみると、
この39巻目の「美術家」は職業ガイドとして果たして成立するのか、否か。
たかだか155ページの新書で語れるべきものなど知れている。
が、これもまた「あるある本」として、もしかしたら生徒たちの進路の
一助として職員室の棚にずらりと並んでいるかも知れない。

ワークショップや観劇、あるいはギャラリーなどで出会った俳優やダンサーや、
そして美術家たちに正面切って「どうしたらそうなれるんですか」と尋ねてみても
片手に「困惑の表情」を、そしてもう片手に
「何がなんでもなりたい人がなって、そうでない人はならなかった」という
至極明快な土産しか持ち帰れないのではなかろうか。

子どもたちに説明する、その説明も「人ぞれぞれで成り立ちが違う」という前提のもとで
しかし現実にその職業が今の世の中でどんな立ち位置にあるのかも知っておく必要がある、
というスタンスで読んでみると、なるほどうまく書けてはいる。
この「美術家」に限ってかも知れないが、
子どもたち(どの辺までを差すかは置いといて)が愕然とする一言が
まず「はじめに」で登場する。

抜粋しながら紹介すると
「美術家には資格も免許もいらないし、自分は美術家であるという自覚さえ持てば、
あなたはもう美術家なのです。こんなにやさしいことはない。
しかし美術家になるのは簡単でも、美術家としてメシを食っていくとなると
両者には雲泥の差があります。
そして年収一億円の国民的美術家も収入ゼロの自称美術家も
等しく美術家であることに変わりはないのです。
むしろ売れる作品をつくる美術家ほど「魂を売った」と非難されたりするけれど、
売れない美術家は「純粋だ」と共感されたりもする。
これが美術家という職業のおもしろさです。
そもそも美術家は職業であって職業ではありません。
美術制作を金もうけのための労働と割り切っている人はまず居ないでしょう。
だから金もうけのうまい美術家ほどうさんくさく見られ、
全く売れない美術家でも尊敬を集めることができるのです。
美術家になるのは本人次第です。
美術家になったところで誰が喜ぶわけでもなく、
辞めたところで誰に迷惑がかかるわけでもない。
はっきりいって、美術家なんて居ても居なくても世の中は大して変わらない、
どうでもいい職業なのです。
だから美術家には無限の可能性がある、とも言えるのです。」

どうですか?
上記の抜粋内容を美術家本人、キュレーター、ギャラリスト、美術ライター、
またコレクター、美術商に読んでもらったら果たして、それぞれにどういった見解があるだろう。
価値基準は立場によって異なる。
そして何よりも、夢見る少年少女たちはマスメディアがもたらす功罪のどちらをも知り、
それでも彼らが魅了されるに十分な環境に幼い頃からどっぷり浸かっている。
上記の「金もうけのうまい…」下りから最後までは少なくとも
職業としての意義に乏しい(というか意義立てが難しい)美術家をめざす彼らへの
せめてもの救いなのかも知れない、と考えると世の美術家は落胆するか。
作品を売る、名前を売るために、何かを利用する、という順序立ては至って健全であるし、
それ自体とやかく言われることはないにせよ、
ある見方からすれば、それこそが「無限の可能性」だと皮肉りたくもなろう。
問題は「作者としての意識の成分と濃度」という気にもなる。

ところで先日、録画したBS朝日の木梨憲武のMoMAの番組を見て、
(まず無いことらしいが2時間ほどBS朝日が館を借り切って撮影したとのこと)
“なぜ現代美術はわからないのか”という番組のテーマを
ではなぜ“それは新しくて刺激的なのか”という巧みな「すり替え」によって
説明していこうという主旨が見えてきて最後の最後になんだか嫌になってしまった。
最近ではやたらキュレーター(そもそもは学芸員だが)が脚光を浴びて
作家と並列にキュレーターの名前が展覧会に大きく出て来て、
僕などはそれだけで辟易してしまう。
いわゆる美術系の専門職なのだけれど本来は「縁の下の力持ち」ではないのか。
なんだか本末転倒な感じがしてしまうのは僕だけか。

白く塗られたカンバスに斜めの四角が描かれている。
とんでもなく有名な画家の作品だそうが、年配のキュレーターへのインタビューで
「これなんか描けそうな感じなんですが…」と問うと
途端に小馬鹿にした顔で「描けませんよ。ええ、あなたには絶対描けませんね」と言う。
描ける描けないで話をせずに、肝心なのは
「あなたにはもはや描く必要はない」と答えておけばいいのだ。
つまり描けそうな作品を見て(一見、稚拙な)描けるか問われたら
ムキになって「描けない」というよりは「描く意味がない」と答えるのが大人というもの。
その後で別なキュレーターが
「この作品には数多くのドローイングが残されていて緻密に計算されたレイアウトなんです」
と言うのも僕には余分な話だ。
番組は最後の数分で見事に解決して(したように)見せる。
つまり彼らは現代美術家と呼ばれる人の作品を時系列に見ていき、
その全てをアタマに叩き込んでいる。
Aから進化したA'を現代美術の系譜に組み入れて、
この作品に潜んでいる刺激的な要素や主旨をクローズアップし、
新しい作品として認知し、さらに来るべき作品を“鑑定”するわけだ。
僕たちはこの時系列に並んだ枝葉を見ないで
それぞれを一点ずつ鑑賞していくから、成り立ちが分からないまま、
「なんだかちんぷんかんぷん」となる、と語る。

本について書こうと思っていたが、
結局、わからないままに終りそうだ…
さてこのGWはさっぱりのシフトで、ギャラリー廻りもおぼつかない。
やれやれ…

「ほろ苦教育劇場 コドモダマシ」パオロ・マッツァリーノ著(春秋社)

Category : 100円本雑読乱読
コドモダマシ

子どもに訊かれて困ることは多い。
世の事情、言い換えれば浮世のしがらみほど、言葉にできない。
だからいろいろと訊かれるのは嫌だ。
よく言われたのが「大人になったらわかるから」という常套句であった。
その昔、小学生の低学年だった頃、
家では殴る蹴るの夫婦喧嘩(いや、どこへ出しても恥ずかしくないほどのDV)の真っ最中、
このままでは母が殺されるかもと、勢い外へ飛び出した私は
通りがかりの中年サラリーマンを掴まえて「助けてください!」と懇願した。
その時、彼の歪んだ困惑顔は
「君もね、大人になったらわかるんだよ。喧嘩するほど仲がいいんだから
心配しなくてもいいよ」と言い残して、あまりこの件には関わりたくない感じでとっとと消えた。
あの時の絶望感は今思い返しても中々なものだった。
結局、二人は仲なんかちっともよくなかったし、そのおかげで
今の私が居るのだと断言してもいいくらいに、
或る道筋を作ってくれたメガ反面夫婦だった。
本当にありがとう。

さてさて、なぜ格差が生まれるのかとか、
なぜ苦しい思いをしてまで受験しなくてはいけないのかとか、
なぜ働くのかとか、
なぜ、なぜ、なぜと子どもたちから正面切って問われたら
あなたは何と答えるだろうか。
私は思う。
そんな時「意義」なんてものを答えに込めるのが一番良くない、と。
例えば大学へ行くことの意義なんて、一番本人がわからないのではないだろうか。
わからないままにうまくいけば四年がすぎて、
わからないままに卒業して、何をしたいかもわからないままに就職する。
勿論そうでない人も居るが、明確に、ヴィヴィッドな目的意識をもって
日々を生きている人はそれほどには居ない。
もしかしたら、そんなものは生活する上で煩わしいことこの上ない代物かも知れない。
ところが大人というのはこの「意義を持て」を強要したがる。
それでは政治家の政治家たる意義とは何か。
もうここからして破綻しているのだから、知れたものだ。

私が思うに子どもたちに責任を持って“伝えなければ”いけないのは
何のために生きるのか、ということ。
どの親でも一回や二回は言われた「好きで生まれたんじゃない」という
彼らのとっておきのセリフは
とどのつまり親も一度や二度はかつてアタマん中をよぎった彼らの“切り札”であったろう。
人間は一人からは生まれてこない。
二人は必要なのだ。
大の大人が二人がかりで作ったんだから、そう簡単に死んではいけないのだ。
と、これで納得する子どもも、まず、居まい。
では「何のために生きるのか」。
残念ながら明快で明確な言葉を僕は知らない。
では、何のために生きるのかを知るために生き続ける、ってのはどうだろうか。
ウザいよな、それ…と思う。昔の自分だったら。
しかし還暦も近いこの歳になってみると、
以外とこれで自分自身納得している。
そんなものだ。
大人なんて勝手な生き物だ。
しかしそう思っている君たちもやがて、というか瞬く間に大人っていうのになっちまう。

この本が面白いのは小理屈並べて
「大の子ども」に世の“機微”とやらを解説する父の様子が可笑しいのだ。
加えてその父、つまり爺さんも、その仲間も登場して、
スタジオで専門家面しているコメンテーターみたいな連中のバカバカしさや
世の矛盾を説いていく、なるほどと思わせたり、
それ、ちょっと無理があるなぁと思わせたりする、
大人の無邪気さが切なくて哀しくて可笑しいのだ。

「大人になったらわかる」
一見、投げやりで無責任にも聞こえるこの言葉に実は
深い池を除き見る様な、謎めいた定理が潜んでいるのだ。
それは失敗や後悔や奥歯をぎりぎり噛み締める様な思いをすればこそわかることで、
何も成功することだけが正解ではないということも同時にわかってくる。
すべからず生きるということは痛くて残酷だ。
最近では(もっと前からだが)老いと向き合う辛さを実感している。
若い人たちが眩(まぶ)しくて、目が眩(くら)む。
ならば…と、この「老い」は開き直ったりするのだ。
開き直るだけの図太さもまた、大人であったりする。

「死よりも遠くへ」吉岡忍 著(新潮社)

Category : 100円本雑読乱読
死よりも遠くへ

いわゆる本読みではあるが雑読と言った方が当たっている。
というのも3、4冊を平行して読むという読書法を
もう何年もしているからだ。
風呂で読み、トイレで読み、電車で読み、仕事休憩で読み、
一日の終わりにうつらうつらと1ページも読めない布団の中で…。
原則的に気持ちの句読点時に読書する者としては
それぞれに温度もテンションも微妙な違いがあって
その都度状況に応じた内容を選んでいるつもりだ。

当然安価であることが大きな魅力のひとつである古本だが
刊行当時の世相や文化を映しているのは
いわば時代を“たぐり”寄せながら読む楽しさに満ちている。
それもあって本読みにあって書店にはまずほとんど足を向けない。
今を映す小説や随筆にとんと興味がなくなっている。
それだけ「今」に魅力を感じなくなっているということか。
というのはとりすました言い訳であって、
実のところ新刊書を買い続ける経済的余裕などこれっぽちもないというのが
実情なのかも知れない。

本書が発行されてからすでに23年が経過している。
発刊後2ヶ月ですでに三刷というから、
その後も増刷されていることは予想できる。
というのも報道番組でゲストコメンテーターとして知られる
吉岡さんの素晴らしい筆致からして容易に想像できるからだ。

ルポについて吉岡さんは徹底的に私感私情を排除している。
それがルポの鉄則であり揺るぎないセオリーであるとは断定しない。
ルポの表現方法も十人十色であるからで、
何にネタをとるか、何を言わんとするのかが各人の仕事だからだ。
しかし問題は良質なドキュメント映画と同様に
観る者、読む者に想像力を与えてくれる“余裕”があるか否かに
かかっているような気もするのだ。
当事者の発言(ここでは筆者)によって事の色合いが
大きく左右されてしまうルポは良質とは言えないと考える。
筆者が誰と会い、喋り、どこを見たかによって
まるで読者が事件の傍らに立っているような錯覚こそが
ルポの醍醐味だからである。

本書は「豊田商事 永野一男会長刺殺事件」「歌手 岡田有希子飛び降り自殺」
「看護婦殺害犯の医師 森川映之」「在籍五十年の金閣寺住職 村上慈海」
「国鉄職員の相次ぐ自殺」そして「昭和天皇崩御の当日の皇居」
について実に綿密に大胆に、しかし淡々と書かれている。
それぞれについてのコメントは差し控えるが
これらの1985年から1989年の出来事は
僕にとっては31歳から35歳までの年表の下に世相として
小さく表記されるものでもなければ直接的に関わったものでもないのだが
結婚して二人の子どもの父親となり、“ひとかど”の世帯主として
一つの人生の地点であったことは確かである。
中でも豊田商事殺害現場の“実況放送”の異様さや
岡田有希子の自殺報道の過熱ぶり、そのどろりとした憶測は印象深い。
そして当時の民営化のうねりの中で
想像を絶する巨大な組織のコマとして疲弊していった国鉄職員の
自殺がこれほど多いとは驚きであった。
この章では民営化を進める管理側と現場職員との軋轢や確執がストレスを生み、
それが自らの命を縮めた結果であるというような画一的な“勝手”な解釈ではない、
あくまで当事者個人について静かにルポしている。
世界に名だたる鉄道としての、その決定的理由は
あのダイヤに全て集約されていると言う人がいる。
あの緻密というには言葉足らずのもはや芸術的な作業の“裏”というか
きっかけは何か、というとお召し列車と大いに関係があるようなのだ。
天皇、皇后、皇太后が乗られるお召し列車には大原則が4つある。
1. 他の列車と並んで走らない。
2. 他の列車に追い抜かれない。
3. 立体交差に於いて他の列車が上を通過しない。
これらをクリアするために「スジ屋」なる専門職がある。
もちろんJRになってもそれは変わらない。
(どころか必然的にますます目は細かくなっている)
網の目のようなダイヤをぬってこのお召し列車を走らせるために
ダイヤそのものが超精度になっていったという経緯があるからだ。
そして最終章は昭和の終えんを迎えたその日の皇居前のルポ。
6つのそれぞれの「死のかたち」のうち、
最も印象的だったのが昭和天皇の崩御に際する人々の反応だった。
奇しくも国鉄職員と天皇自身の死が見えない線で
僕だけの中で繋がるという奇妙な感覚があった。
日本人とは何か、などという存在意義的な問いかけなどよりも
皇居に一人、また一人集い、記帳していく老若男女の一言が
政治や思想で説明できない“つぶやき”として厳然とそこに在る。
天皇のついての想いや解釈、印象が
これほどに個人的であることにも驚きを禁じ得ない。
ではその日、僕は何をしてどこに居たのか…
そして僕自身、何を感じたのか…
当時の自分は感情を現す言葉さえ持っていなかった気がする。

こんな形で“呼び起こされる”感覚。
まさに古本の魅力の一端がここにある。
新しい職場での僕の同僚、あるいは先輩(!)たちに
平成生まれが多いことは日常の職務には何ら影響を与えるものではない。
しかしこの章を読みながら、昭和という時代のるつぼのような状況、環境を
30年余り経験した者から見ると、
天皇の死というのはやはり一つの「時代の象徴の死」でもあったのだと
僕なりに痛感する。

テレビのコメンテーターとしてしばしばお目にかかる吉岡さんだが、
改めて「出来事を視る」仕事、「出来事を考察する」仕事、
そして「出来事を正確に伝えつつ」、「出来事に際して考える余地を作る」仕事の
難しさを本書を読んでみてつくづく感じた。
もしどこかで背表紙を見る機会があったなら是非手にとって欲しい本である。











「死よりも遠くへ」吉岡忍 著(新潮社)

いわゆる本読みではあるが雑読と言った方が当たっている。
というのも3、4冊を平行して読むという読書法を
もう何年もしているからだ。
風呂で読み、トイレで読み、電車で読み、仕事休憩で読み、
一日の終わりにうつらうつらと1ページも読めない布団の中で…。
原則的に気持ちの句読点時に読書する者としては
それぞれに温度もテンションも微妙な違いがあって
その都度状況に応じた内容を選んでいるつもりだ。

当然安価であることが大きな魅力のひとつである古本だが
刊行当時の世相や文化を映しているのは
いわば時代を“たぐり”寄せながら読む楽しさに満ちている。
それもあって本読みにあって書店にはまずほとんど足を向けない。
今を映す小説や随筆にとんと興味がなくなっている。
それだけ「今」に魅力を感じなくなっているということか。
というのはとりすました言い訳であって、
実のところ新刊書を買い続ける経済的余裕などこれっぽちもないというのが
実情なのかも知れない。

本書が発行されてからすでに23年が経過している。
発刊後2ヶ月ですでに三刷というから、
その後も増刷されていることは予想できる。
というのも報道番組でゲストコメンテーターとして知られる
吉岡さんの素晴らしい筆致からして容易に想像できるからだ。

ルポについて吉岡さんは徹底的に私感私情を排除している。
それがルポの鉄則であり揺るぎないセオリーであるとは断定しない。
ルポの表現方法も十人十色であるからで、
何にネタをとるか、何を言わんとするのかが各人の仕事だからだ。
しかし問題は良質なドキュメント映画と同様に
観る者、読む者に想像力を与えてくれる“余裕”があるか否かに
かかっているような気もするのだ。
当事者の発言(ここでは筆者)によって事の色合いが
大きく左右されてしまうルポは良質とは言えないと考える。
筆者が誰と会い、喋り、どこを見たかによって
まるで読者が事件の傍らに立っているような錯覚こそが
ルポの醍醐味だからである。

本書は「豊田商事 永野一男会長刺殺事件」「歌手 岡田有希子飛び降り自殺」
「看護婦殺害犯の医師 森川映之」「在籍五十年の金閣寺住職 村上慈海」
「国鉄職員の相次ぐ自殺」そして「昭和天皇崩御の当日の皇居」
について実に綿密に大胆に、しかし淡々と書かれている。
それぞれについてのコメントは差し控えるが
これらの1985年から1989年の出来事は
僕にとっては31歳から35歳までの年表の下に世相として
小さく表記されるものでもなければ直接的に関わったものでもないのだが
結婚して二人の子どもの父親となり、“ひとかど”の世帯主として
一つの人生の地点であったことは確かである。
中でも豊田商事殺害現場の“実況放送”の異様さや
岡田有希子の自殺報道の過熱ぶり、そのどろりとした憶測は印象深い。
そして当時の民営化のうねりの中で
想像を絶する巨大な組織のコマとして疲弊していった国鉄職員の
自殺がこれほど多いとは驚きであった。
この章では民営化を進める管理側と現場職員との軋轢や確執がストレスを生み、
それが自らの命を縮めた結果であるというような画一的な“勝手”な解釈ではない、
あくまで当事者個人について静かにルポしている。
世界に名だたる鉄道としての、その決定的理由は
あのダイヤに全て集約されていると言う人がいる。
あの緻密というには言葉足らずのもはや芸術的な作業の“裏”というか
きっかけは何か、というとお召し列車と大いに関係があるようなのだ。
天皇、皇后、皇太后が乗られるお召し列車には大原則が4つある。
1. 他の列車と並んで走らない。
2. 他の列車に追い抜かれない。
3. 立体交差に於いて他の列車が上を通過しない。
これらをクリアするために「スジ屋」なる専門職がある。
もちろんJRになってもそれは変わらない。
(どころか必然的にますます目は細かくなっている)
網の目のようなダイヤをぬってこのお召し列車を走らせるために
ダイヤそのものが超精度になっていったという経緯があるからだ。
そして最終章は昭和の終えんを迎えたその日の皇居前のルポ。
6つのそれぞれの「死のかたち」のうち、
最も印象的だったのが昭和天皇の崩御に際する人々の反応だった。
奇しくも国鉄職員と天皇自身の死が見えない線で
僕だけの中で繋がるという奇妙な感覚があった。
日本人とは何か、などという存在意義的な問いかけなどよりも
皇居に一人、また一人集い、記帳していく老若男女の一言が
政治や思想で説明できない“つぶやき”として厳然とそこに在る。
天皇のついての想いや解釈、印象が
これほどに個人的であることにも驚きを禁じ得ない。
ではその日、僕は何をしてどこに居たのか…
そして僕自身、何を感じたのか…
当時の自分は感情を現す言葉さえ持っていなかった気がする。

こんな形で“呼び起こされる”感覚。
まさに古本の魅力の一端がここにある。
新しい職場での僕の同僚、あるいは先輩(!)たちに
平成生まれが多いことは日常の職務には何ら影響を与えるものではない。
しかしこの章を読みながら、昭和という時代のるつぼのような状況、環境を
30年余り経験した者から見ると、
天皇の死というのはやはり一つの「時代の象徴の死」でもあったのだと
僕なりに痛感する。

テレビのコメンテーターとしてしばしばお目にかかる吉岡さんだが、
改めて「出来事を視る」仕事、「出来事を考察する」仕事、
そして「出来事を正確に伝えつつ」、「出来事に際して考える余地を作る」仕事の
難しさを本書を読んでみてつくづく感じた。
もしどこかで背表紙を見る機会があったなら是非手にとって欲しい本である。

「田村はまだか」朝倉かすみ(光文社)

Category : 100円本雑読乱読
田村はまだか

読者は何を読欲基準(こんな言葉はない)にするのか。
古本に腰巻きがあるのは稀で、
僕などはタイトルと装丁(ここでは表紙かな)で手にすることが多い。
だからあらぬ情報による操作?に惑わされるリスクは少ない、
というのは実は変な話で出版社はそれこそ
映画の予告編のごとく、この面積に本体の妙味醍醐味を集約して
それを読者に掴みとして放り投げる。
勘違いなコメントはとことん読者に叩かれる。
映画も小説も同じで、長らく同じことを経験すると、
あらぬ期待を寄せることは前菜、いや食前酒ぐらいの気持ちでいることと
覚悟するものである。
「ラストは怒濤の感動が…」なんて惹句が踊っていたら
思わず手にとって心浮き立ち、いそいそと家路に向かうだろう。
僕はその“問題の”帯を見たことがないから何とも言えないけれど、
人情として考えれば、それを書いた人の責任は限りなく大きい。

2009年吉川英治文学賞受賞作の本作は(それもアマゾンで知った)
6編からなる連作短編集。
でも一話目、表題の「田村はまだか」は良かった。
確かに大嘘のコピーにダマされた読者は星ひとつもあげたくないだろうが、
この読後感は悪くなかった。
受賞に値するかは置いとくとして、である。

札幌ススキノの小さなうらぶれたスナックに小学校のクラス会の3次会に残った40代の5人の男女。
彼らは田村久志を待っている。
当然3次会であるから相応に気の合った者の集まりであり、
遠方から来る田村と当時の自分たちは濃い関係にあるかと言えばそうではない。
クラスの人気者でもなかったこの田村は「孤高の小学生」だった。
男好き故、生活がユルく、派手な母親との二人暮らしは当然貧乏。
遠足の弁当もおかず無しのおにぎり二つ。
しかし達観していた。
5人が酩酊しながらも根気強く田村を待つ間に
当時の哀しくも凛とした田村がらみのエピソードがそれぞれの視点で語られる。
ただ彼が孤高であったことは翻って自分たちが年齢相応といえども未熟であり、
そこに「取り返せない時間」を見て検証する。

語られる逸話には現在では田村の妻となった同級生の中村理香が当然のように登場する。
この問題児は誰に対しても無反応で
彼女もある意味で、そう“ありがちな意味”で達観していたのかも知れない。

世を拗ねた少女。何もしないことで自分を存在させている少女。
「ほんとうはなにもないんだ。どうせ死ぬんだ。いつかみんな死ぬんだ」と
泣きながらクラスメートたちに毒ずく彼女に
女物のピンクのジャージーを穿いた田村が近づいて言う。
「だから生きているんじゃないか」
「どうせ小便するからって、おまえ、水のまないか? どうせうんこになるからって、
おまえ、もの、くわないか? 喉、渇かないか? 腹、すかないか?
水やくいものは、小便やうんこになるだけか?」
「おれの指は動く。おれの足は動く。心臓が動いている」
田村は嗚咽する中村の肩に手を置き、ひとこと、
「好きだよ」と囁く。

このくだりは多少、読者にとっては大きな期待を寄せ過ぎた
この表題作の見せ場であり、この小説のテーマが与えてくれる
ささやかな普遍性と言えなくもない。
この“人生の達人”を待つためだけに何時間もスナックで呑む彼らを
不自然と評した読者も居たが、それもまた小説。
彼らにとって“その後”の彼に会うことを、会えることこそが
今の目的であるのだから、そこは大目に見るのが大人というものだろう。
この連作はスナックに集う男女それぞれが
一編ずつ、それぞれのエピソードによる構成になっている。
従って連作の最後は或るオチが潜んでいるのだが…
多くの読者は多分にこの展開が嫌なだけなのだ。
劇的展開はとかく不自然な状況を生み、
これを読んで「小説の禁じ手」であると改めて確信した読者も
少なからず居たであろうと推測する。

ふとある昔の出来事を思い出した。
何をやっても何もかもうまくいかなくて失意のどん底にいた時に
「もうどうでもいい。死んでもいいんじゃないのか」とまで思い詰めたことがあって、
そのとき、日払いで働いていた工場のトイレに立ち、
自分が放尿する筋を見ているうちに
「飲んだものがこうして出て来る人間ってのは大したものだ」と妙に感心して
なんだか生きてみるのも悪くないかと
おかしなきっかけで心が何とか持ち直したということがあった。

毅然として生きるというのは実際疲れるし、
時には荷物を下ろして休むことも必要だ。
田村と中村は、実は折ってみたら合わさった
限りなく相似形な二人だったのかも知れない。

この40ページにも満たない短編を読み終わって、
5人がそれぞれに際立つセリフとして成立した舞台として
見たい気持ちになった。
とは言え、皆さんおっしゃる、
ゴドーを待ちながら、か?…と。

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