「 川嶋 守彦 展 」

Category : 現代美術シッタカぶり
2014.04.28〜06.07【 gallery SUZUKI 】

ギャラリーに来て、感じて、話す。
川嶋さんのような作品を見る時に、よく「直感で」とか言う人も居ますが
何も直感でわからない人が現代美術を理解できていないというのとは
ちょっと違うような気もします。
それほどに人の直感は磨かれてはいません、フツーは。
そこでちょっと作品の前にかがんだり、後ろにまわったり、
矯(た)めつ眇(つが)めつ、といった感じでうろちょろします。
作品にはそれぞれ碗ではないけれど景色というものがあって
僕はまずそこへ踏み込んでみます。
アタマの中で「?」が点滅した頃に
作家に訊くのです。
一気に開けてくる、あの感覚が好きで
(そういう展覧会はなぜか印象に強く残ります)
ギャラリー通いをしていると言ってもいいです。
そう、頂上に登った時に見はらす、あの感じ。
川嶋さんは徹底的にマテリアルの持つ「物体としての特性」を「利用」します。
それは素材そのものの本来の機能を軽々と越えて
置かれる環境と共鳴し合うのです。
つまり「素材と時間」との一瞬の一コマを
長いフィルムにして、立体的に会場に投射しているような感じなのです。
作品そのもの、例えば焼物やタブローや彫刻「そのもの」への
観客の反応は、先ほどじゃないですが、とても直感的です。
それは無意識的に作品に自分というフィルターを通して
「評価」「査定」を下しているということに他なりません。
もちろん観客の性差、年齢、経験値などからそれぞれに
勝手な価値判断のもとで作品を鑑賞しているわけですから
作品とは「無防備なさらしもの」とも言えなくはないです。
川嶋さんは作品を通じて、観客と対話しようとする時に
そこその距離感が心地良いと感じます。
絵や彫刻によって、作家の心性を象徴化し、
至近距離で迫ってくるものとは異なる、
作品と見る側との、一種の異質性から生じる摩擦熱、
つまりは「火の中に飛び込む」といった感じよりは
作品をめぐって話ができるほどの距離というのが
むしろ楽しめるんではないか、とシッタカぶります。
これらは工業製品としてどこででも手に入るものながら
川嶋さんの選択肢の中で、その特性に
機能以上のものを感じ取った素材であり、
この(ご本人はかなり難しかったと仰っていました)
南向きのギャラリーに於いては、その効果はてきめんでした。

光沢のある色紙で折ったように展示されている作品は
実は写真として印刷されたものを組み上げたものです。
その瞬間に「それ」は全く意味の違う存在に変化しています。
同様にテープを斜めに貼った作品も
外光や蹴上を走り去る車の瞬時の淡い映り込みを捉えて
「テープの貼られたパネル」が
いわば環境とのめくるめく対話をし続けるのです。
川嶋さんが選び取る要素とは極めてシンプルで明解です。
おそらくはコンセプチュアルになり過ぎない、
抑制した感じを作品に反映しているような気もします。

会場でギャラリストと川嶋さんとのお話の中で
現代美術の自由さと、実生活の中での不自由さとの
挾間で、それでも「見ることの免疫」「見続けることの意味」
「見たことによる豊かさ」をとても強く感じました。
フェイスブックのタイムラインにアップした
先のキュレーターに関してのコメントでも述べたように
実社会と作品との関わり、そして、その社会を構成する
ひとり一人の受容(力)が高まれば
もっと人生は愉しくなるはずです。
そんなことを感じた、とても印象的な個展でした。

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