「 ヒロシマ、ナガサキが、教えてくれたこと 」

Category : 浮世の「うっ!」
げんばく

これを発明したのも、落とすと決めたのも、落とされて殺されたのも、それを正義と信じるのも、まぎれもない人間。だから人間である以上は絶対に忘れてはならない。風化という常套句はここには要らない。「戦争」とは何か。この人類史上最悪の罪を誰にも「問えないこと」これこそが戦争の真実だ。だから僕たちはもっと想像力を働かせなければいけないのだ。もっともっと。昨日の番組で、被爆者が小学生に体験を語るという場面で最後に「原爆が落ちたことはあなたたちにも関係があります。原爆を落とされたのに原子力発電所はあるのはおかしい。私は反対です」と言った瞬間、校長が止めに入ったという。政治的発言はふさわしくない、と考えたと語っているが、果たして現在の状況でこの意見すら自由に言えない、言わせないとする理由はどこにあるのだ。被爆国が原発の技術を輸出するなんておかしいにもほどがある。福島の恐ろしい経過をこの校長はどう考えて、どう捉えているのだろう。これは政治的見解でも何でもない。現実なのだ。ところが、である。よくよく考える。国歌斉唱をしないということが処分対象になると明言した連中が全国の学校に「反原発」思想の輩に物言わせずと考えるのは至って簡単で、それこそ想像の範囲を越えない。さらに、ある若い教師は被爆者の手記を紹介することに抵抗を覚える。「眼球が落ち、口の奥から内臓が飛び出していた」というような凄惨な表現は恐怖が勝ってしまって、原爆の悲惨さを訴えるには現状ではふさわしくない、と。では福島の小学生たちが見た津波の阿鼻叫喚な様、押し流されていく家々を見た瞬間の恐怖とは何だったのか。恐怖についてはせいぜい想像をたくましくするがいい。文字から恐怖を思い起し、その心に刻むがいい。それこそが今、一番欠けている「想像教育」だ。ゲームの世界の想像はつまるところアンリアルな快感。僕には忘れられない一枚の写真がある。警察署のお知らせボードに、交通事故で顔半分がない、眼球が落ちた男性の写真。今だったら総スカン。袋だたきに合うだろう。言い換えれば呑気な時代であり、ヴァーチャルな感覚など小説や映画の世界以外どこにもなかった。このリアルさはそれからずっと僕の印画紙に焼き込まれて、交通事故の悲惨さを痛切に知ることになるきっかけだった。日常的に殺人がどこかで行われている現実はワイドショーでなくても、小学生は知っている。その手口や動機まで。恐怖を語ることを恐れては愚かな人間が学ぶ機会を永遠に失うだろう。さて、今の政治、言うまでもなくアベなにがしの答弁を教材にして小学生から徹底的にディペードすべきだと思う。もちろん教師も含めて。それができないのは言うまでもなくアベなにがしかの圧政である。どどのつまりアベなにがしが言っていることなど、小学生にだって訳することはできるほどだが、筋が全く通らないから、小学生にも論破できる。もはや日本は壊滅への土砂崩れの小石がぱらぱらと落ちていく過程にすでに入った。あとは皆の想像力で突き進むしかない。山ほど居るバカ議員の話などスルーすればいい。奴らを二度と赤絨毯になど歩かせるべきではないという決断と実行力を今こそ持つのだ。マスコミも人心の興味深い所を根掘り葉掘りかきまわしながらも、しがらみまみれでズクズクだ。戦後70年を経て日本人、いや原爆を投下した人間も含めて何を学んだのか。思えばアメリカの正義はあの投下で決定的に定義されたと歴史認識の低い僕は勝手にシッタカぶるのだが。繰り返すが、30万人にも及ぶ人間が殺されて、一切の罪を問えないこと、むしろ逆に断罪されたのは落とされた国であったこと、これが「戦争」なのだ。70年のこのタイミングに次々に明らかになるアベなにがしかの腹のいちもつを総出で粉々に砕くことだ。それには学生も老人も子供も関係ない。関係あるのは託せる未来を作らなければ、今を生きている意味そのものが問われることになる。



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