「 光の趾音 ~ light treading the ground ~ 安喜 万佐子 」

Category : 現代美術シッタカぶり
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2015.11.17~11.28【 galerie 16 】

個展のDMが届き、印刷された作品を見た時に
ちょっとだけ浮いた感じになったのは、
作家の意図を図る以前の、
少年的な無邪気な衝動から来たものでした。
明らかに都市の俯瞰された風景であることに、
多分ジオラマが与える「見晴らせる快感」といったものを感じ取ったのでしょう。
しかし実物を見てその画面から、
深遠な何かがひたひたと波紋のように揺らめいているように思え、
ささやかではあるが、
ここに作家が示唆するものがほんの少しわかったような気がしたのです。
風景とは現在の状況を映すバロメーターのようなもの、と言えば
これは明らかに僕の私感でしかないのですが、
例えば近々ではシリアの空爆の様子、
湾岸戦争の頃からにわかに目にするようになった
射程を定めて爆撃するゲームの画面のような、あの何とも言えない、
在るのは発射のボタンを押す皮膚感覚だけというおぞましさは
「彼らの風景」を破壊していきます。
それはかつてあった歴史に培われた風土をことごとく消失させると同時に、
新しい「都市の記憶」を作り出しているとも言えます。
安喜さんのステートメントになるほどと思わせる記述があります。
「風景」という近代語への関心についてです。
「人間が世界と対峙し、切り取って眺め、
分析しながら自然を切り開く(=拓く※シッタカ註)ことを基点とした概念である
西洋の「landscape(地景)」と、
東洋でいう「山水」や「景(かげ)」という概念で捉えていた世界観を、
僅かながらに残そうとした葛藤を含んだ単語が
「風景」ではないか」ということです。
先に空爆の例をとりながら「風景の存在」とは
常に強者によって変容するのではないかと僕なりに考えたりしましたが、
いろいろな場所へ出向く機会の多かった安喜さんの風景の捉え方は
もっと人間が決して触る事の出来ない
「畏敬の念」がそこかしこに在るということのようです。
東洋文化の研究機関にもおられた安喜さんは
風景への東洋哲学としての解釈を絵を通じて表現しているのではないかと思います。
2機の軍機がシルエットとなって
不気味に静かに街並を舐めるように飛行している様が描かれた
「白い影/記録はいつも勝者のもの」という作品の持つ
「普遍的な哀しさ」は人々が生きていた事実を消し、
街を平地に変えてしまう恐怖と罪を痛烈に感じさせます。
この「消失した都市」シリーズに加えて金箔画の作品も展示されています。
光の具合や人の所在によって、
つまり時間と空間の作用によって全く同じに見えることが無いという視点もまた、
東洋的な自然観に強く結びついています。

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