「 おもかげ ~ 笠井 遥 展 」

Category : 現代美術シッタカぶり
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2015.02.08~12.13【 ギャラリー恵風 2F 】

ダリアを描く。対象は当たり前のように首をうなだれる。そして枯れていく。静物画とは言うまでもなく、静止して動かない物を描くということですが、これは「動かない」という一点でしか説明できていません。どんな静物にも時間の経過が反映されて、一瞬の膨大な集積は「経年」という宿命を受け入れざる得ません。その意味で考えれば一輪のダリアは早回しするまでもなく、やがて枯ちて死んでいきます。生花であることは裏返せばやがて死んでいくということですから、花を描くということは目に見えない早さで朽ちていく花弁にかかる「時間の負荷」を無理矢理に引き戻しながら描写しているということになりはしないでしょうか。まぁ、ご大層な理屈ではありますが、そう考えると「花を描く」ということにまた違った意味を見いだせるかも知れません。笠井さんは枯れたダリアを逆さまにしてみます。死んだ花(とは言わずに、枯れたというのも至って詩的ですが)は笠井さんにとって「過ぎる日常のその先にある兆し」(ステートメントのフレーズ)を感じさせたひとつの現象でした。生気と死後。そのどちらにも、それにふさわしい光があるはずです。片側の壁面には生花のダリア、一方の向い側には枯れたダリア。対面する二つの間に漂うものは「死 ≒ 生」の近似値です。「ひとはな」と題された、よく見るとグロテスクにうごめく花弁と、すでにその片鱗すら伺えないスカルなダリア。今回の「目玉」ははっきり言えばこの「死のダリア」です。この作品の黒いベースの下には何色もの下色が層になって描かれています。しかもその下にはさらに石膏が一面に(花が描かれていない部分も全部)塗り込められているのです。ですからこれは「描く」ではなくて「掻く」かも知れません。版画で使うニードルで一面に縫った画面を密やかに削っていくのです。当然強く削れば中間の色を飛び越えて白い石膏が見えてしまうし、弱いと画面にメリハリが出なくなる。白く削ったダリアを描く、つまり実際にモチーフに辿り着くまでに相当な時間、いや日数を要するとのことです。しかも一回勝負。笠井さんは日本人が潜在的に持っている無常観、死生観を表現するために自分なりにふさわしい画法というものをずっと試行錯誤されながら追求してきました。描き加えて完成する「生」と削ることで完成する「死」の取り合わせは、残酷なようですが、生まれたことは死への宿命を背負うという一個の生命体に必ず訪れる、そしてそれを繰り返すことで「現在」という時間が成立するという永遠のスパイラル、もしくは振り子のような、決して抗うことのできない法則の上に生きていることを表しているような気持ちになるのです。大作を仕上げた時には疲労による吐き気にさえ襲われると語る笠井さんの渾身の作品たちです。

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