川口 隆夫ソロダンスパフォーマンス 「 大野 一雄について 」

Category : パフォーマンス見聞
大野一雄について

2015.11.28【 京都芸術劇場 春秋座 】

去年見たパフォーマンスですが、思うところあり、で。解説にもありますが「振付」っていうのはダンサーに動きをつけることですよね。振付師、または振付家というか、今はコレオグラファーなんていいます。これは当然人伝いによります。ダンサー/コレオグラファーである川口氏は、現実に踊っているのを見た事がない「振り」を完全にコピーします。大野一雄というスゴい舞踏家の作品です。面白いのは最後の質疑応答で「踊っている時に何を考えていますか」の質問に「実は、ここで何回ジャンプ、とか、ここで左に回る、とかしか考えていません」との答えでした。僕が思うのは、この潔さは実は大野一雄を徹底的にリサーチして、どうやって「成り切る」か、己に落とし込むか、への、とても分かりやすい根拠に基づくものではないか、ということです。人伝いに放ち、受け取りながら振付けられる動きを、ビデオを見ながら「真似るのではなく、そのひとに近づくための動き」として解釈することは、自らもコレオグラファーである川口氏にとっては、単なるリスペクトではない、もっと深い、つまり底が見えないほどの深い井戸の渕から覗いているような心境ではないか、と勝手に察したりします。川口さんは自らのコメントにこう記しています。「足すも引くもなく忠実にコピーしようと努めること。コピーを行う主体側の解釈や特性を消して可能な限りその対象に自分を重ねようとすること。しかし重ねよう、寄せようとすればするほど、その重ならない部分、どうしてもはみ出てしまう部分が、逆に、その主体の存在を消すことのできない有り体を浮かび上がらせるという「コピー」であるがゆえに「オリジナル」であるという、パラドックス。」トークで大野一雄という偉大な舞踏家をリアルタイムで見知る舞踏研究家の國吉和子氏は、かなり川口氏に対しては辛口(まだまだね、という)でしたが、同時にその恐らくは誰もしないであろう「勇気ある行為」に喝采を贈ってもいました。ダンスという表現行為について「真似る=コピー=再生」ということと「振付ける」ということの違い、平たくいえば「振り付ける=振り付けられる」こと、それ自体、伝承という枠の中で脈々と(能や狂言など)受け継がれてきたものですから、コピーすることと、実質的にどういった差異が生じてくるのか、などと色々と考えさせられるパフォーマンスでした。その後の芸術センターでの大野一雄のビデオも時間をかけて見てみました。「踊る」という「日常性と所作との関係性」のようなものも、少しですがわかったような気になったシッタカブリアンでした。




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