「 流れ山 / Flowing mountain ~ 来田 広大 」

Category : 現代美術シッタカぶり


PC190002.jpg

2015.02.09~12.22【 Gallery PARC 】

今、自分はどこに立って、どこへ行こうとしているのかを端的に知る方法としてのマップ機能は、あくまで「自分」が携帯している端末あってのことで、かつてのように地図を広げながら「目安=方角・構造物・道・山・川など」になるものを想定しつつ、今居る場所と目的地との関係を等身大で推し量るという作業はほとんど必要とされなくなりました。さて、来田さんが山と関わりを持ったのは親に連れて“いかされた”登山がそもそもの始まりでした。やがてご自身が求めてやまない山との濃密な時間は、東京藝術大学で油画を学ぶ来田さんという人間の創意・発見・着想というものに結びついていきます。会場の床一面にチョークで描かれた俯瞰された山=富士山は作り手である来田さんだけが認識していて一向に差し支えなく、つまりは山とも思わない人さえいるでしょう。一切の情報もなくこのリアルタイムに微妙に変化し続ける作品を見た時に何を思い浮かべるでしょう。来田さんはそれを「像の更新」と呼んでいますが言い得て妙です。山をフィールドワークの拠点としてきた作家は先の「所在」を知るための手立てとして俯瞰した風景というものから、土地・場所・記憶・領域という「見えない境界」を探ろうとしているのではないか、と考えます。つまり山を登っている時に見えるものはあくまで「風景」であって今、踏みしめている大地の「高みへの連続」はその足裏の感覚→疲労感でしか認識されません。そして頂上に達した時に見えるものは「かかる時間」といわゆる「達成感」です。疲労感はその達成によって担保されるわけです。しかしながら山の全貌を見る事も知る事もできないのです。今頂上に居る点としての自分をどんどん引いて見てみると(つまり上空から)それは境界のない地図になり、やがて国土となり、日本という総称を持つ「面積」になっていきます。話はとりとめのないものになってきましたが、安河内さんの文章の中にある「鑑賞者が来田の描くイメージの全貌を捉えることは原理的にできない。でも、それでいい。山とは、そのようなものとしてしか経験できないからだ。いや山だけではなく、世界とは本来、そのようなものとしてしか経験できないものなのだ」という下りは、このような展示作品を通じて「世界感・観・間・環」と言われているものへの美術的考察のひとつの手段なのではないかということです。自分の中の経験則は、ある選択=美術家になることで、このようなフィードバックを現実のものとさせます。山をアスレチックに語る、山を精神の拠り所として語る、山を神々の宿る場所として語る、そして山を俯瞰しながら自己と世界との関係性を表現する、こういう人も居るのです。

PC190003.jpg

PC190004.jpg

PC190005.jpg

PC190007.jpg

PC190009.jpg

PC190010.jpg

PC190013.jpg

PC190014.jpg

PC190015.jpg

PC190016.jpg

PC190018.jpg

PC190017.jpg

PC190020.jpg






スポンサーサイト

Comment

非公開コメント

58カ国語に翻訳
English
お越しいただきありがとうございます

den

………………………………………
アート・ドキュメント・ブック・
ミュージック・演劇・ダンス・
朗読・時事・ひがみ・そねみ・
やっかみ・おせっかい…
などなどシッタカぶって書きちらかしては
自己嫌悪な日々をゆらゆらと
過ごしております。
「シッタカブリアンの午睡」
「デラシネ光合成」をこのたび一本化。
言いたがり、やりたがり、ノリたがりな
のんのんとしたブログにお越しいただき
ありがとうございます。
………………………………………

ここから、また…
最近の書き散らかし…
こんなこと書いてます
こちらへもどうぞ!