「Boundary of Watercolor ~ 八木 翔子 個展 」

Category : 現代美術シッタカぶり
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2016.02.02~02.07【 KUNST ARZT 】

常々思うのは、作者の意図というのは「伏線としての書式」にあると思っています。どんなに直感的な作品でも、果たして作家の意図するものと合致する必要も必然もないわけです。(全くとは言いません)しかし自分の作ったものには責任が伴うという或る種の不文律がもれなく付いてくるというのも作家ならではの如何ともしがたい部分です、多分。多分というのは僕は作家ではないので、そういったジレンマや緊張感や、あえて自分の作品に「許せるだけの幅=客観的視座=観客がどう見ているのか」を想定することなど当然、叶わないからです。偶発、偶然といった現象はきちんと段取りを踏んで制作しても、想定外に現れることがあり、それが吉となって後の作風に大きな影響を及ぼすこともあるでしょう。デカルコマニーという手法は一種の転写ですが、蓋を開けてみるまでわからないという点では一点ものの版画といえます。偶発的な造形に「なすがままになる=委ねる」というスタンスは同時に視る者に「問う=想像させる」という効果をもたらします。八木さんはデカルコマニーをさらに拡張していきます。つまり「何かに見える」という視覚認識を当てはめていくわけです。デカルコマニーという一種のオートマティズムに作家自身が反映されていくわけです。これは偶発的にできた色彩から或る造形を抽出するわけで、大げさに言えば作家の年齢や性差や価値観、経験値などが少なからず影響し、観客は「偶然→必然」の過程を視ながら逆算していくという面白さを体験します。奥のスペースには3つのタイツ作品が展示されています。これはプリントされたモチーフが様々な形状、サイズの足に「穿かれる」ことでわずかな変容を示すというものです。タイツを穿く人はどう視られるかということについて、自分の足しかモニタリングしてませんから(モデルが穿いていたとしてもそれはモデルであるということに過ぎない)柄がどういう風に伸びたり、歪んだりしているのかは認識しにくいですよね。偶発的なデカルコマニーによって引き出されるもの←→完成されたモチーフが個体によって歪む、という相反された、結果的な必然をそこに見ることができます。


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