「 鷹木 朗 + 田中 奈津子 二人展 ~ SPECTRA 」

Category : 現代美術シッタカぶり
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2016.02.095~02.21【 ギャラリー恵風 】

お話しの中で幾度か「絵画の危機」という言葉が田中さんの口から放たれました。僕は重ね重ねですが絵のことはよくわからないまま、こうしてレビューもどきな拙文を晒しているのですが、絵描きとして、他ならぬ当事者としての「危機感」というのは、つまりは時代性に伴う抗えぬ必然であるのか、はたまた当事者の意識としてなのか、いや絵画をとりまく環境の「異変」なのか、さらに美術教育そのものなのかは、本当に残念ながらトークイベントに参加できなかったのでわからないのですが、いわゆる「タブローとしての危うさ」のようなものなのでしょうか。ボーダーラインを明確にする、カテゴライズするということはそれぞれに独自の価値観、価値基準といったものを設定して、その中で内容を高めていかねば、やがて絵画というゾーンの境界は曖昧になり、その領域が侵蝕されるという、そういう危機感なのかな、などと想像をめぐらすのです。さて、美術家でもない僕がエラそうにのたまっても何の役にも立ちませんので…田中さんと一階で展示されている水田さんとは京都市芸でほぼ同期、鷹木さんとは親子と言ってもおかしくはない年齢差です。この展示では鷹木さんと田中さんの合作が7点(=虹)、正面に展示されています。僕には2点しか当てることができませんでしたが、その成り立ちの面白さ、掛け合いの妙はいわば当事者にだけ実感できうる「画家の機微」のひとつだと思います。鷹木さんの光、田中さんの光。それぞれのステートメントに書かれた文言による解釈や感じ方の相違というものが、そのまま作品に反映されているかどうかは別として、鷹木さんの科学的な検証による光の成分とご自分の創意・発露へと導かれる道程、そして片や田中さんの光という一本の境界線のあちらとこちらでさんざめく対比・比較の見立ての面白さ。木を風景を光の成すべき機能によって明確にカンヴァスにさし示すこと。そして版画的な解釈のもとで壺というモチーフを用いることで光を探ろうとすること。この両方はいずれも画家というよりも人間としての存在に大きく関わる事象であると感じられます。田中さんの壺は空気を或る面で仕切ります。壺の中には明瞭な「内側」という空間があって、そんな話をしているうちに人間の歴史の中に壺というものがどれほど重要であるかと改めて気がついたり。鷹木さんの作風も段々と光の濃いところを抽出するような画面になってきたのではないか、と勝手に詮索したり。そう、それと合作の中で一端描いたものを消すという決断は、一度表した光を閉じるということで、やはり画家というものはセンシティブな光の捉え方をするものなのですねぇ。21日(日)までですので、是非とも!

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