リアルとは成り立ちを知ること…「水口裕務展」

Category : 現代美術シッタカぶり
水口

9月22日→10月14日【ギャラリー恵風】

現代アートはいつも雄弁であり、
どんなに小さくともそこに己を主張してやまない息を発する。
時にそれは“詭弁”に聞こえるだけだったり、
ただ大きな石を上から落として
その波紋が大きければ大きいほど
“面白いんだ”と言わんばかりの作品もある。
説明が要るもの、要らないもの。
もっと良くないのは説明を聞いてもわからないもの。
誰に向けた現代アートなのだろうと
いぶかし気に見てしまう個展も多い。
しかし多分、結論を言えば「それでいいのだ!」となる。
この「それでいいのだ!」だけの作品に出会う時、
ちょっぴりだが暗澹とした気持ちに落ちていく。
苦笑しながらも作家本人と話をさせていただき
その“熱情”に耳を傾けることもあるが
おしなべて作家諸氏は寡黙である。

久しぶりに重厚感のある、とても太い芯を持った絵に出会った。
会場に満ちているのは明らかに自然が放つイオンである。
(実際の有無はともかくとして)
木漏れ日の森、深い緑の中を流れるせせらぎ、雪の山間、
浜辺の石、花が朽ち落ちた池、陽光射す青空を映す水辺…

作家の目がしっかりと捉えたその描写は
同じものを撮った写真と比べるまでもなく僕たちに
限りないイマジネーションと
画廊の壁から難なく入っていけそうな別世界を目撃させるのだ。
腐葉土や朽ちた枝やはいずり回る虫たちや
上を飛び交う鳥までもが、全方位的に見る側の網膜に映る。
濃厚な木々の匂いや花々たちの“加齢臭”さえも鼻孔に感じる。

これは見たままを描くのではない。
もちろん圧倒的な筆力、テクニックは言うに及ばず、
その向こうにある“自然のかたちと当然の成り立ち”を
理解し、愛しているからこそ描ける一級の絵である。
風景画などという大雑把なカテゴリーに納まらない。
なぜなら風景に自らが同化してしまっているからだ。
スーパーリアリズムはどこまでいっても終着点がある。
想起させる余裕を作品に持たせるということは
描写力と観察眼と妥協しない姿勢の賜物である。
加えて美術ライターのレビューで書かれていた
「徹底した個性の排除」が
気がつけば、あちら側の景色の中にずぶずぶと入ってしまう
自分の発見をももたらす。

若い人にこそ、このような個展に足を運んで欲しい。
もちろん人それぞれだが「表現する」ということの
ひとつの答えをここで見つけていただきたいと思う。
これは具象でありながら、
僕にとってはとてもシュールな気分にさせてくれる不思議な絵である。

水口氏ご本人の謙虚なお話ぶりと
慢心とは無縁の画家としての姿勢に頭が下がる思いで
個展会場を後にした。


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