オーガンジーに映る“まほろば”…「中川久子展 印象の光景」

Category : 現代美術シッタカぶり
中川久子1

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11月10日→11月15日【アートスペース虹】

人が光景を目にする時はそこに起こった
あらゆる事象を瞬時に目で体感しているということ。
それは感じるということだ。
そして、それは一秒後には“過去”になる。
記憶は所詮記憶でしかない。
頭の中のラボに一旦はファイリングする。
ある日ふいに検索して、
段々とピントが合って網膜によみがえる時もあれば
結局はファイル名も不明という結果になることもある。

ギャラリーの反対車線を走った時、
さて、今週はどんな個展かな、とクルマの窓ごしに
一瞬だけ確認した“それ”は
動体視力が甘い僕でも間違いなく“好き”とわかるものだった。
期待を込めて帰り道に覗いたギャラリーはいつもと
室内の空気成分が違うような気がした。

白いオーガンジーに転写されたのは風景写真。
作家自身がフィルムの一眼レフで撮影したもの。
あるサイトでのインタビューを読むと
現像所によって焼き増しの調子が微妙に違うこと自体を
面白がっているとあった。
その時のキーワードになるのが「不確実性」。
だから今見ている光景は私が見ていると“自覚”はしているものの、
他の人にどう映っているかは不明だ。
今の色や空気や匂い、気配は
すぐに違う何かにとって替わられそうだ。
タイミング。
合わせて「不確実性とタイミング」。
これでどうだろう。

壁にピンで止められたオーガンジーは
転写した物の後ろにさらに“素”のままの生地が
わずかな隙間で重ねられていて
壁の影響をソフトに遮断している役目を果たしているようだ。
ピントが合う前の一瞬は
まるで寝起きの風景のように、頼りなくおぼろげ。
匂い立つような、揺らめくようなシーンは
蜃気楼のように心を惑わし、
見ているものを問い正すような不思議な感覚にさせる。

フレームの無い素地と展示方法が
たぐり寄せる記憶の断片としての風景や
デジャヴな感覚を呼び起こすことに成功したと思う。

素通りしてしまう光景とそうでない光景、
言い換えれば、何も感じない光景と
心に留めた映像との差とは一体何なのだろう。


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Comment

「まほろば」とは美しき処という意味の古語ですが「美しき処」を「そこ」に定着させ記憶させるのに オーガンジーという素材を使うとは なんと面白い発想でしょう。
薄く儚げな素材の生地の上に焼き付けられた「美しき処」は見る人の想念というフィルターに濾過され 無限に広がっていくように感じます。
以前の漆の写真も面白かったですが 今回も面白いし 綺麗!

to imari

いい作品に出会うと
思わずため息がでます。
これもそうでした。
今は昔できなかったことが易々とできます。
それが新しい感覚を呼び覚ます手段となるなら
大賛成です。
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den

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