民があればこそ、民を見てこそ…「円空・木喰 展」

Category : 現代美術シッタカぶり
円空

11月7日→12月29日【美術館「えき」KYOTO】

円空と木喰。
不謹慎な言い方でなんだが、なんだかいつもセットだ。
17世紀と18世紀にそれぞれ活躍した造仏聖の二人が
互いに生きて会ったことはない。
円空が入定(にゅうじょう)した後、
23年後に木喰は生まれている。

この入定というのは明治期には法律で禁止された終世、
いや生死を超えた修行のことである。
土の中に部屋をつくり竹筒で空気穴を設けて上から完全に埋め、
中で断食しながら鐘を鳴らしてお経をあげ続け、
最後には即身仏となって現れるという究極の修行である。

二人とも仏師とは決して呼ばず、造仏聖。
都を離れて仏像や神像を“彫り歩き”しながら
布教活動をしていた二人。
庶民との交流を通して自らが彫った仏像が
信仰の対象として大切に守られ、崇められてきたという点で
共通し、造形的な比較も成されてきた。

木喰が仏像を彫るきっかけは
円空仏との出会いからとも言われているようだが
真偽のほどは確かではない。
確かに造形的に影響された痕跡は無いようだ。

会場は狭いながら、食い入るように見入る
老老男女が目立ち、やはりというか…うるさい。

僕自身は木喰仏にはあまり魅力を感じないこともあって
円空仏ばかりに目が行ってしまった。
バラエティに富んだ造形で
中にはオブジェと見まごうばかりの
抽象的かつ躍動感のあるノミの彫り跡が素晴らしいものもある。
その辺の木(とは言ってもヒノキやサワラなどの柔らかいもの)や
時には卒塔婆さえにも彫ったという円空の
類い稀な“心でとらえた形”は息を呑むほどに目に迫るものがある。
ひと際大きい「十一面観音像」にはしばし見とれた。
木喰と決定的に違うのは
顔の表情であるが、常に真一文字の目の奥に
強い意志と込める“念”のようなものがうかがえる。
色々な不動明王の中でも、明王の背に盛る火焔をそのまま
木の表面に利用したものなどの直感的なセンスは
この時代にあって特異なものだったのではないかと思う。

荒々しくデフォルメされたとてもプリミティブな印象のものと
丸みを帯びた丁寧な印象の菩薩像との対比も面白く
いつまでも見ていられる、吸い込まれるような形は
時にエキゾチックでさえある。

円空仏の話ばかりになってしまった。
何より惹かれるのは、
この造形に円空の厳しくも温かな生き方や信念が込められ
庶民たちの厚い信仰の力を感じさせること、
今日まで大切にされてきた“仏さまへの愛おしみ”が
漂ってることに、なんだかこちらまでが穏やかになるのである。


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