もはやシェルターは必要なくなった今…「セルロイド・クローゼット」

Category : ドキュメントDVD
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監督:ロブ・エプスタイン
   ジェフリー・フリードマン

映画における同性愛の描かれ方を
ハリウッドに限定して検証しているドキュメンタリー。
タイトルにはフィルムの保管場所という本来の意味、
それと偏見と差別から身を守るための逃げ場所、
いわばシェルターという二重の意味を含んでいる。

特記すべきは登場する脚本家がゲイやレズであることによる
“立場”からコメントが寄せられていること。
それはある“切実さ”を含み、
マイノリティであることの生きにくさを吐露している。
と共にプロの映画人としての視座からの的確な指摘もある。
自分の青春時代に見た(それは正に同性愛者としてのアイデンティティに
深く傷ついたり、また喜びを得たりしていたナーバスな時期でもあると思う)
これらの映画について、日陰から日向へ、といった賞賛をしているわけではない。
それどころか、スクリーンの中での彼らの描き方に当然のように
“世間”からの、言い換えれば異性愛者からの反感の目と、そのことに沿うように、
あまりに悲惨なゲイやレズの結末というものにも愕然としている。

すでに1910年代に同性愛はお笑いの種であり、
社会的に認知する、しないのレベル以前であることもわかる。
常に“変態的”性質のキャラクターとしての
刺身のツマのようなものであった。
それは“反面人格”とも言えるほどに偏向していた。
男装の女性、例えばディートリッヒは悲嘆的で妖気さえ漂うが
女装の男性は嘲笑の的の、その先すらない。
抹殺ものである。

その後の作品には自身の苦悩や社会との関わりに重きが置かれるものも少なくない。
快楽ではなく苦悩を描くといった社会派のテーマとして浮上することもある。
しかし、何らかのトラブルを死ぬまで抱えながらのたうち回るという筋立てや
観客にとって早く画面から消えてほしい人物であることには変わりないのだと
当事者たちは語る。

脚本家にとって映画を面白く、スリリングに、あるいは熱くするのは
悩ましい人間をスパイスとしてストーリーにのせることかも知れない。
表向きはストレートに見えるが私生活の顔は違う、であるとか
そのために異様に性格が歪んでいるとか、
結局は潜在的にエキセントリックなキャラクターとしての
位置づけを強いられる。
あげくは殺されたりなぶられたりして話から消えていく。
先の同性愛者である脚本家やカミングアウトしている俳優が
「同性愛者だったらすぐにピンとくる場面や表現、セリフ」を
指摘していることも興味深い。

一体どれほどのシーン、何本の映画に「faggot ファゴット」という
セリフがあるのだろうと思わせるほどに
“からかい”や“反感”の代用として、この言葉が俳優の口から憎々しげに吐かれる。
ファゴットとはゲイを侮蔑するスラング。
それはストレートから見ればゲイやレズは一種の精神病なのだという
過去の間違った断定、認識を承知で使っているのだろう。

彼らが語る“やっと明るいゲイの映画が出た”のが「真夜中のパーティ」だ。
ゲイ賛歌、死なない内容、素晴らしい連帯感を感じ、歓喜したと述べている。

監督と検閲官とのイタチごっこ、あるいは知恵比べの中で明らかなのは、
このテーマを避けてハリウッド映画は成立しなかったことだ。
「フリービーとビーン」「バニシング・ポイント」「グリニッジビレッジの青春」
「カラー・パープル」「テルマ&ルイーズ」などの比較的新しいものから
「モロッコ」「レベッカ」「ベン・ハー」のような
往年の名画に至るまで、120本ものハリウッド作品から提起している。
厳しい検閲をくぐるための「暗示的表現」に苦慮した様子も描かれている
貴重なドキュメントと言える。


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