サウンド・オブ・サイレンス…「ジョン・ケージ」

Category : ドキュメントDVD
ケージ

何よりもジョン・ケージの作品そのものに触れたい人には恰好のDVD。
ドキュメンタリーではあるものの、
後半に「プリペアド・ピアノと室内管弦楽のための協奏曲」と
ケージ自身が総譜は無いという
「ピアノと管弦楽のためのコンサート」の二つの作品の
ライブ演奏が納められている。
特に2曲目は指揮者が自らが手を針に見立てた時計になって時を刻みながら、
演奏者はそれぞれ独立したソロをとるもの。
楽器となる様々な道具を見ているだけでも楽しい。
そしてフィニッシュの演奏者と指揮者とのアイコンタクトなやりとり…。

ジョン・ケージは20世紀を代表する現代音楽家としてよく名前は知られているが
その実、演奏の方は敬遠される嫌いのある、
現代音楽家にありがちな親しみにくいとされるアーティストである。

やはり4分33秒という、かの“名曲”が
人々を戸惑わせ続けているのかも知れない。
演者は4分33秒の間、ピアノを蓋を閉めるまで何もしないという、
その間の音は全て“音楽”であるという、あれである。
予期せぬ、想定外の展開は人々に様々な行動を呼び起こす。
席を立つ人、咳払いをする人、囁きあう人…
会場の外からもわずかではあるが音が入ってくる。
いわば嘆息さえ、そして最後の蓋を閉める音も含めて
「音楽」であると言われれば、なんと勝手なと思う人の、
これまた思うツボとなる。
1952年が初演と聞けば、いかにケージが
突出した解釈の持ち主であり、実践者であったかわかる。
おまけにこの曲は33秒、2分40秒、1分20秒の3パートに分かれている。
これをピアノをダシに使ったパラドックスと揶揄もされた。

音符で表現されるものだけが“音楽”ではないという
乱暴に見えて実は大変繊細な解釈こそが、
新世紀の音楽の創造となった。
それは音符を出自とするものと単なる音との境界を取り払い、
環境下にある様々な「音」を捉え直し“聴く耳”を持つことを促したのである。
ケージは東洋思想の中でも特に「禅」に傾倒し、寺へも足を運び、
現代音楽という海で、ひたすら無我の境地を求めていたのだろう。
それは音楽家というよりむしろ思想家に近い。

偶発、不確定性は時として理解を越えたところで作品を成立させる。
それは行為そのものまで構成要素として取込む。
ケージは言う。
「偶然は無作為とは違う」
ケージの偶然とは、音楽の4大要素(大きさ、高さ、長さ、音色)に
左右されない、支配されないというフリーフォームなものなのであって、
音楽にある数値的な制約からの解放なのであろう。
音楽教育に積極的にケージなどの作品を取込むことで
楽譜通りに“演奏”できることへの優劣や
達成感だけを求めたようなものではなく、
もっと自由で楽しいものだという認識が持てる現場であったなら
僕の音楽の成績ももう少しはマシだったかも知れない。
いや、成績などと言うところが俗人の煩悩か。




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