その行間に見えるもの…「 泉 洋平 展 月の標本 」

Category : 現代美術シッタカぶり
8月3日→8月15日【gallery neutron kyoto】

展覧会の模様を貧困な語彙と拙い文章で伝えようとする無謀さ。
“視た”ままのイメージを伝えるのには
僕のコンパクトデジカメでは確かに心もとない。
そんなことを実感する個展である。

「視よう」とするから見える、というフレーズがある。
これは何にでも言えることで、子供の直感的な捉え方が時として
優れているのは意識下か無意識なのかすら意識せずに見るからだ。
僕(たち)はまず構えて、探ろうとする見方を身につけた
悲しい経験則を持っている。
そこに今回のような作品に出会うと、
ハッと気付かされるのである。
作家の言う「“視覚構造”を通して人間内部の見えない構造的なものへの考察」とは
普段何気なしに見ているテレビの画面や他人の顔に潜む、
「であろう」感覚を改めて揺り起こし、検証することではないだろうか。

CIMG2786.jpg

CIMG2783.jpg CIMG2781.jpg

CIMG2779.jpg CIMG2777.jpg 

CIMG2774.jpg CIMG2772.jpg

↑半時計回りに見て歩くと球体から三日月状に変化する

白いL字型の木製の枠に対角線を描くようにびっしりと
白い50番のミシン糸がテンションを保ちながら地面と平行に張られている。
その一本一本に部分的に着彩されている。
歩きながらその木枠に張られた、整列された糸を見てまわると
浮かんでくるのは月。
左方向から右へと移動するにつれて月は欠けていく。
もうこうなると僕の目は“児童”のそれになる。
はしゃぎたい気持ちを抑えつつ何度も移動しながら見る。
見えているのは何か。
ここでモチーフを月とする理由がよくわかる。
月を“欠けた”と表現する人の心の趣というか機微というか、
このことにも改めて感を深くするのである。
実際は球体であり“続ける”月に反映する影を闇と解釈する人情。
ユークリッド原論で言う
「線とは幅をもたない長さである」という定義の中に
こうして浮かび上がる月を見ていると
現代先進技術による3Dやらホログラムやらの“錯視操作”には無い
構築された幾何学的な美とでもいうのか、
静かだが確実にそこにある幻を強烈に意識する。
絵具ではその色そのものがある質量を持ってしまうために
主張が過ぎて効果的でないという観点から
着彩に使われているのは油性ペンである。
これは正に「いくつかの力が同時にある物体に作用して、その結果物体が
静止状態を保つこと。力の釣り合い」という平衡の意味を成している。
そしてそれは“相殺される視覚”というマジックも含んでいるのである。

CIMG2769.jpg

CIMG2770.jpg 

↑正面から見ると正円。やや視線をずらすと見えてくるものは…

大きな口の字型に縦に張られた黒い糸に黄色く着色された作品は
糸のか細い質量に反して実に骨太である。
こちらの作品も満月から三日月への移行を同次元で表したもの。
糸と枠の重量感の対比そのものが
「標本」とネーミングされたタイトルにふさわしい。
ちなみに作家に搬入時の様子を尋ねてみると
木枠そのものを運んだということで、
これはひとえにテンションへの配慮だからである。

同化するものから探し出す。
隠れているものから見つけ出す。
それは作品から受ける非常に“文学的・詩的”な印象と相まって
僕たちに“素敵な思い込み”と“確信犯的勘違い”を
楽しませてくれる。

にほんブログ村 美術ブログ 現代美術へ

↑ポチッとくれたらありがたき幸せ♪


スポンサーサイト

Comment

非公開コメント

58カ国語に翻訳
English
お越しいただきありがとうございます

den

………………………………………
アート・ドキュメント・ブック・
ミュージック・演劇・ダンス・
朗読・時事・ひがみ・そねみ・
やっかみ・おせっかい…
などなどシッタカぶって書きちらかしては
自己嫌悪な日々をゆらゆらと
過ごしております。
「シッタカブリアンの午睡」
「デラシネ光合成」をこのたび一本化。
言いたがり、やりたがり、ノリたがりな
のんのんとしたブログにお越しいただき
ありがとうございます。
………………………………………

ここから、また…
最近の書き散らかし…
こんなこと書いてます
こちらへもどうぞ!