亡骸(なきがら)を辿りながら綴る…「 回想の遺体  伊東 宣明 」

Category : 現代美術シッタカぶり
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↑むき出しの機材や配線がなおさらに曖昧に立ち上がる記憶装置としての危うさを感じさせる。

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12月7日→12月12日【立体ギャラリー射手座】

テーマありきの作品である。
テーマにまつわるものであれば、作品の形態は何ものにも束縛されない。
人の髪の毛で醤油を作ったり、自身の尿を配合した石鹸を作ったりもすれば
亡き祖母と共に昔語りをしながら、抗うことのできない死へ向かう姿を
映像とした作品もある。
伊東さんはフリーフォームだ。

死ぬという“原則”は、
またこれほどに平等な“義務”として万人が関わる不可避な出来事だ。
しかし病気や不慮の事故では当然そうは解釈されない。
人生半ばで自ら命を絶つ人、
相手の過失、自身の判断ミスによって事故で亡くなる人、
天災に巻き込まれた人、
さらには殺される人…。
死の結果通知は医師の判断だとしてもそのプロセスは様々である。
そして最後に収まるのは棺。
だが、家族が決して死を受け入れないであろう
遺体のいない葬式もある。

インタビューを読む。
作家は1年半の間、葬儀屋に勤めた。
理由はもちろんある。
長く居た大学から社会に出る時に作家としてやっていこうと決める。
かねてより身体性、生と死というテーマで作品づくりをしてきた作家にとって
無関係な場所からはテーマに則した作品を作ることは
できないとの判断である。

この話は僕にある種の芸術についての誠実さを強烈に感じさせ、
また作家が神聖なる領域で己の作品としての存在意義を問うていることに
不思議な感銘を受ける。
生を表現するのに新生児室に通うなどということはないとは想像するが、
悲しみの中にほんの先ほどは「生きていた」という事実そのもの、
そして冷たくなった遺体ほど「生」を訴えるものは無いと思う。
死は生であり、生は死であるという表現はパラドックスではなく
作家が葬儀屋に就職したという事実によって
生と死が作家自身を媒介しながら静かに作品に反映される。

作家は言う。
「血まみれの遺体、孤独が滲み出た遺体、身体の一部が欠損した遺体、
裕福で幸せそうな遺体、若い遺体もあれば年老いた遺体もあった。遺体は冷たい。
遺体は人の香りがするし、獣の香りもした。
薬品の匂いと糞尿の匂いもした。
人生の情報が蓄積され、統括されていた。」

100体以上の死体に、その手で触れてきた作家は
結局、死を理解したり実感したりできなかったとも語る。

この32個のそれぞれのスピーカーから語られるのは
作家本人が8人の遺体と対面した時の記憶。
一つの(一人という表現がしにくいのも事実である)遺体について
4つのスピーカーからつぶやくように発せられる回想は
作家自身が辿る記憶の回線。
あちらこちらからのさざめくような声は聞こうと思うと、
とぎれ、別の声がまた向こうから立ち上がっていく。
テーマから考えるにもっと演出めいた展示になるかと思いきや
このストレートな様相は実はとても効果的だったことがわかる。
つまり、あざとさがかけらもないのである。
それは観客のアタマをめぐらせ、
様々な感情の揺らぎを持ち帰るにふさわしい装置として的を得ている。

遺体がもはや匿名性の器官の集合体になっていることは
多くの遺体が身体的特徴を際立たせながら、
かろうじてインプットされているという作家自身の事実に基づく。

亡くなった人間はその後、人々の心の中で生を叫ぶ。
その分だけ遺体は忘れ去られる。
遺体が遺体であり続ける時間はそれほどに短いのだ。


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