萠えてきました。類焼です。

Category : 浮世の「うっ!」
統合して廃校になった小学校跡地利用のケースとしては
京都マンガミュージアムは全国的にその名を知られるようになった。
海外からのファンも来館するほどに企画展もおしなべて好評だ。

とある夏の日。
柵の向こうにいる大勢のコスプレたち。
写真を撮り合ったり、語らったりとなごやかな雰囲気。
が、こっちから見てるとまるで動物園のよう。
そのオリから出られないかのようなコスプレたちに
一種の悲哀を感じるのはなぜだろう。
本人たちは至ってゴキゲンなのに、微妙にうら寂しいのだ。

僕は漫画もアニメともに、いわば黎明期とも言える時期に
少年時代を過ごした人間であるから
僕の肉の一部はその影響下で構成されていると言ってもいい。
でもなぜかコスプレは好きになれない。
ご陽気に愉しいという気分になれない。
あの四角いコマ、あるいは四角いブラウン管の中で
彼らが動き回り、子供心にいっちょまえのカタルシスや
シンパシーを感じていた、あの感覚は
やはりどこまで行っても仮想である。

今から40年前、僕は高校入学の年だった。
文京区音の講談社で寺山修司がよびかけ、
力石徹の告別式があった。
800人を越えるファンがキャラクターの告別式に集まるという
異景は当時のマスコミにとっては恰好のネタだった。
その「意味性」など問うまでもなく
この現実を感覚的に瞬時に理解し得るほどに
「あしたのジョー」がもたらしたものはやはり筆舌に尽くし難い。
その800人の殆どが中高生であったとしても
この行為そのものがすでにアウトローである。

こうしてキャラクターの“ために”弔いを劇場化した寺山修司と
キャラクターを立体化させたコスプレとの差とは何だろう。
手づくりの衣装を自らの身にまとい喜々として参加する彼らは
僕にはデパートの屋上で園児を相手にアクションを披露する
ヒーローよりもさらに幼児的だ。
つまり全てが着ること、いや成り切ることでしか完結されない
貧相な満足感でしかないとしか思えないのだ。
本人が愉しけりゃいいんだったら、それこそオリの中の見せ物である。
その先のアプローチはないものなのだろうか。

宮津は天橋立。
最初のコスプレ大会がなんとか成功したとかで
これから積極的にこの企画を押し進める予定だ。
風光明媚な観光地に津々浦々からお出ましになるコスプレファンは
「観光客からも地元の人からもとても親切にされました」とか。
それは物珍しさ(これがまたやっかいで、その人のキャパの広さを誇示するための
バロメーターとしてもコスプレは機能するのである)と
邪気の無さそうな彼らへの“同情的な”行為の一端なのではないだろうか。
僕が宮津に住んでいたら集客について背に腹は代えられなくても、お断りである。
狭量だって?
いや、「らしさ」はどこまでいっても「らしさ」ではないだろうか。
昔の嵐山付近のタレントショップのようなものが並ばないとは限らないから…。





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Comment

No title

「立つんだ!ジョー!」って、乙女だった?私もモノマネしてましたよ(笑)

一時期、京都が好きでなかった時期がありました。
あの嵐山のタレントショップ(-_-;)

酷暑の京都大変でしたね。これからは観光客三昧?(^^;
御身大事に・・・

to shizuku

to shizuku

力石の告別式はリアルタイムだったので
当時行きたくてたまらなかった
思い出があります。

当時の嵐山はそりゃひどいものでした。
美空ひばり館も閉鎖し、
食い付き、思いつきだけでやると
ああなるいい例です。
今でも嵐山へ行くと完璧なよそ者になる僕ですが(笑)
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