石のインナーマッスルを見た…「 山𣷹 潤 彫刻展 」

Category : 現代美術シッタカぶり
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11月8日→11月20日【 ギャラリー揺 】

家に帰って改めて撮ってきた作品を眺めていると
いきなり「?」と「!」が交互に目の前に表れて
実は2年前に見ていた作家さんだとわかる。
現代美術カテゴリーも370回近くになると
加齢に伴う失念現象が顕著になる。
今回は山𣷹さんにも会えた。

↓過去ログ
http://den393.blog81.fc2.com/blog-date-200907-11.html

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↑無数の鑿の跡。まるでレイヤー。

石彫刻は他にも増してどことなくストイックな印象を受けるものだ。
それはおそらく石の持つ素材としての普遍性と
集積、あるいは構築といったプラス概念よりも
塊を叩きながら実質的には体積を“減らして”いく物体としての
マイナス概念の中に感覚的に潜んでいるものではないかなどと憶測する。
重量感といえば鉄も同じだが、腐食させたり加熱したりつぶしたり
接合させたりと、その制作過程には存分に“いじる”要素が多く、
有り体に言えば多弁な作品が多い。
そこへ行くと石というのは寡黙だ。
先のストイックな印象の一つとしてあげた塊からの引き算が
この山𣷹作品には感じられない、どころか
どれも表面のテクスチャーには幾層にも積み重ねられた行為の痕跡が見える。
体積を減らしながら、作家は一度つけた鑿(のみ)の跡を消すように
新たな表情を刻み込む。
まるで一度描いた上からさらに描き込んでいくような…
垣間見える過去がそれぞれに新しい重層的な面差しをつくっていく。
こういうカタチをつくろうと作為するのではなく、
彫るという行為の中で自分が得心したタイミングが完成の時だと言う。
マケットも作らない。
その間合いこそ作家でなければわからない妙味というものなのだろう。
和室に置かれた作品は大きなお化けカボチャのようにも
あぜ道に忘れ去られたように経年の跡を惜しげもなく見せる道祖神のようにも見える。
実は大きなだるまが年月を経てこんなにまるっこくなっちまったみたいに
妙に艶かしく、軟体なのだ。
庭を見て、初めて大きさやそこに在ることのイメージを作り上げたという
四角い石の表面はエッジがどことなく儚げで
まるでデッサンの一部を消しゴムでこすったような跡がところどころに見える。
庭には一面に長方形の庭石が敷き詰められている。
石の上に石の作品を展示することの不安や杞憂は無かったのだろうか。
訊いてみる。
「敷き詰められたものはただの石。上の作品とは違う。
もしここに置いて作品が負けたのであれば所詮その程度のものだったということですね」
ところが、である。
もう何年もここにあるかのような“居心地”の良さが伺えるのだ。
フローリングに置かれた長い作品。
最初は色が塗られている。
そこから槌音が作家の体内リズムと共鳴しながらアトリエに響き(これはあくまで想像)
表面の色はランダムに削られていく。
ゴツゴツした肌合いはグラインダーによって穏やかなものへと変容する。
なんでもグラインダーはすぐに減っていくという。
減らしていく工程なのに見えない層が厳然とそこに感じられることの不思議さ。
それこそが作家の息吹きそのものなんだと
なんとも言えない快い感動が奥のほうから滲みでてくる。
壁には作品と同サイズのドローイング。
これも彫るという作業(という言い方はこの場合あまりふさわしくないが)と
描く行為をシンクロさせたもの。
その手ははっきりと描くことと彫ることを行ったり来たりしながら認識する。
「カタチを彫るというより力を表す」
内より出でし力、むくむくと湧き上がる筋肉の一本一本が見えてくる。

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↑奥に見えるのが鉛筆での細密なドローイング。

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↑砂糖菓子のような大理石の作品。


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