墓について(下)

Category : 浮世の「うっ!」
今から20年ほど前に、母は墓を立てた。
それも通りすがりの寺で。
もちろん宗派は相違ないが、
誰に紹介してもらったわけでもなく、である。

姉弟間のいさかいで東京の墓と縁を切った。
根っからの東京人気質が時折トラブルの元を生んだりする母だが
京都にはそれなりに馴染み、愛着を持っていたのだろうと思う。
終の住処を誰も知り合いの居なかった京都に決めたのはいつ頃なのだろう。
と言っても、50年近く住んでなお、知り合いはほとんど居ない。

墓が立てるということは寺とつき合うことである。
しかし、かつて身内の問題をいの一番に相談しに行ったのがお寺だった時代、
つまり両者に濃密な関係が築かれていた時代とは
今は微妙に違ってきている。

もちろん母の立てた墓の下には誰も入っていない。
寺からは塔婆の申し込みハガキが届くが、
この辺の要領を得ていない僕には実に不思議に思える。
塔婆も供物も線香も果たしてどのような意味があるのか…。

「誰も入っていない墓に手を合わせるのはおかしい」といった質問サイトで
ある方が模範的な答えを書かれていた。

誰も死んだ人がいないので仏壇は要らない、墓石も要らない、と間違った事が言われています。
家には仏壇を、外には墓塔が必要なのです。
お墓へ行かれて、花を供えて香を焚いてご本尊とご先祖様へ合掌礼拝をし
元気に暮らせている喜びと感謝を報告をなさって下さい。

墓参りとは先祖への感謝、そして今を生きる自分を改めて見つめ直す機会である、と
理解してはいるが、それとは別にこの先祖感覚というのが僕には希薄である。
それ故か、できることなら自分に墓は要らない、とさえ考えている。
これは自分の未来に訪れる死というものへの或る決別意志の表れなのかも知れない。
花も線香も供物も要らない。
石の下に永劫居るのは嫌である。
なんとフトドキなと言われようと、できたらハワイにでも散骨してもらいたい。

大谷廟の広大な敷地に並ぶ膨大な墓石を見ながら
そんなことを考えた。

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