「死よりも遠くへ」吉岡忍 著(新潮社)

Category : 100円本雑読乱読
死よりも遠くへ

いわゆる本読みではあるが雑読と言った方が当たっている。
というのも3、4冊を平行して読むという読書法を
もう何年もしているからだ。
風呂で読み、トイレで読み、電車で読み、仕事休憩で読み、
一日の終わりにうつらうつらと1ページも読めない布団の中で…。
原則的に気持ちの句読点時に読書する者としては
それぞれに温度もテンションも微妙な違いがあって
その都度状況に応じた内容を選んでいるつもりだ。

当然安価であることが大きな魅力のひとつである古本だが
刊行当時の世相や文化を映しているのは
いわば時代を“たぐり”寄せながら読む楽しさに満ちている。
それもあって本読みにあって書店にはまずほとんど足を向けない。
今を映す小説や随筆にとんと興味がなくなっている。
それだけ「今」に魅力を感じなくなっているということか。
というのはとりすました言い訳であって、
実のところ新刊書を買い続ける経済的余裕などこれっぽちもないというのが
実情なのかも知れない。

本書が発行されてからすでに23年が経過している。
発刊後2ヶ月ですでに三刷というから、
その後も増刷されていることは予想できる。
というのも報道番組でゲストコメンテーターとして知られる
吉岡さんの素晴らしい筆致からして容易に想像できるからだ。

ルポについて吉岡さんは徹底的に私感私情を排除している。
それがルポの鉄則であり揺るぎないセオリーであるとは断定しない。
ルポの表現方法も十人十色であるからで、
何にネタをとるか、何を言わんとするのかが各人の仕事だからだ。
しかし問題は良質なドキュメント映画と同様に
観る者、読む者に想像力を与えてくれる“余裕”があるか否かに
かかっているような気もするのだ。
当事者の発言(ここでは筆者)によって事の色合いが
大きく左右されてしまうルポは良質とは言えないと考える。
筆者が誰と会い、喋り、どこを見たかによって
まるで読者が事件の傍らに立っているような錯覚こそが
ルポの醍醐味だからである。

本書は「豊田商事 永野一男会長刺殺事件」「歌手 岡田有希子飛び降り自殺」
「看護婦殺害犯の医師 森川映之」「在籍五十年の金閣寺住職 村上慈海」
「国鉄職員の相次ぐ自殺」そして「昭和天皇崩御の当日の皇居」
について実に綿密に大胆に、しかし淡々と書かれている。
それぞれについてのコメントは差し控えるが
これらの1985年から1989年の出来事は
僕にとっては31歳から35歳までの年表の下に世相として
小さく表記されるものでもなければ直接的に関わったものでもないのだが
結婚して二人の子どもの父親となり、“ひとかど”の世帯主として
一つの人生の地点であったことは確かである。
中でも豊田商事殺害現場の“実況放送”の異様さや
岡田有希子の自殺報道の過熱ぶり、そのどろりとした憶測は印象深い。
そして当時の民営化のうねりの中で
想像を絶する巨大な組織のコマとして疲弊していった国鉄職員の
自殺がこれほど多いとは驚きであった。
この章では民営化を進める管理側と現場職員との軋轢や確執がストレスを生み、
それが自らの命を縮めた結果であるというような画一的な“勝手”な解釈ではない、
あくまで当事者個人について静かにルポしている。
世界に名だたる鉄道としての、その決定的理由は
あのダイヤに全て集約されていると言う人がいる。
あの緻密というには言葉足らずのもはや芸術的な作業の“裏”というか
きっかけは何か、というとお召し列車と大いに関係があるようなのだ。
天皇、皇后、皇太后が乗られるお召し列車には大原則が4つある。
1. 他の列車と並んで走らない。
2. 他の列車に追い抜かれない。
3. 立体交差に於いて他の列車が上を通過しない。
これらをクリアするために「スジ屋」なる専門職がある。
もちろんJRになってもそれは変わらない。
(どころか必然的にますます目は細かくなっている)
網の目のようなダイヤをぬってこのお召し列車を走らせるために
ダイヤそのものが超精度になっていったという経緯があるからだ。
そして最終章は昭和の終えんを迎えたその日の皇居前のルポ。
6つのそれぞれの「死のかたち」のうち、
最も印象的だったのが昭和天皇の崩御に際する人々の反応だった。
奇しくも国鉄職員と天皇自身の死が見えない線で
僕だけの中で繋がるという奇妙な感覚があった。
日本人とは何か、などという存在意義的な問いかけなどよりも
皇居に一人、また一人集い、記帳していく老若男女の一言が
政治や思想で説明できない“つぶやき”として厳然とそこに在る。
天皇のついての想いや解釈、印象が
これほどに個人的であることにも驚きを禁じ得ない。
ではその日、僕は何をしてどこに居たのか…
そして僕自身、何を感じたのか…
当時の自分は感情を現す言葉さえ持っていなかった気がする。

こんな形で“呼び起こされる”感覚。
まさに古本の魅力の一端がここにある。
新しい職場での僕の同僚、あるいは先輩(!)たちに
平成生まれが多いことは日常の職務には何ら影響を与えるものではない。
しかしこの章を読みながら、昭和という時代のるつぼのような状況、環境を
30年余り経験した者から見ると、
天皇の死というのはやはり一つの「時代の象徴の死」でもあったのだと
僕なりに痛感する。

テレビのコメンテーターとしてしばしばお目にかかる吉岡さんだが、
改めて「出来事を視る」仕事、「出来事を考察する」仕事、
そして「出来事を正確に伝えつつ」、「出来事に際して考える余地を作る」仕事の
難しさを本書を読んでみてつくづく感じた。
もしどこかで背表紙を見る機会があったなら是非手にとって欲しい本である。











「死よりも遠くへ」吉岡忍 著(新潮社)

いわゆる本読みではあるが雑読と言った方が当たっている。
というのも3、4冊を平行して読むという読書法を
もう何年もしているからだ。
風呂で読み、トイレで読み、電車で読み、仕事休憩で読み、
一日の終わりにうつらうつらと1ページも読めない布団の中で…。
原則的に気持ちの句読点時に読書する者としては
それぞれに温度もテンションも微妙な違いがあって
その都度状況に応じた内容を選んでいるつもりだ。

当然安価であることが大きな魅力のひとつである古本だが
刊行当時の世相や文化を映しているのは
いわば時代を“たぐり”寄せながら読む楽しさに満ちている。
それもあって本読みにあって書店にはまずほとんど足を向けない。
今を映す小説や随筆にとんと興味がなくなっている。
それだけ「今」に魅力を感じなくなっているということか。
というのはとりすました言い訳であって、
実のところ新刊書を買い続ける経済的余裕などこれっぽちもないというのが
実情なのかも知れない。

本書が発行されてからすでに23年が経過している。
発刊後2ヶ月ですでに三刷というから、
その後も増刷されていることは予想できる。
というのも報道番組でゲストコメンテーターとして知られる
吉岡さんの素晴らしい筆致からして容易に想像できるからだ。

ルポについて吉岡さんは徹底的に私感私情を排除している。
それがルポの鉄則であり揺るぎないセオリーであるとは断定しない。
ルポの表現方法も十人十色であるからで、
何にネタをとるか、何を言わんとするのかが各人の仕事だからだ。
しかし問題は良質なドキュメント映画と同様に
観る者、読む者に想像力を与えてくれる“余裕”があるか否かに
かかっているような気もするのだ。
当事者の発言(ここでは筆者)によって事の色合いが
大きく左右されてしまうルポは良質とは言えないと考える。
筆者が誰と会い、喋り、どこを見たかによって
まるで読者が事件の傍らに立っているような錯覚こそが
ルポの醍醐味だからである。

本書は「豊田商事 永野一男会長刺殺事件」「歌手 岡田有希子飛び降り自殺」
「看護婦殺害犯の医師 森川映之」「在籍五十年の金閣寺住職 村上慈海」
「国鉄職員の相次ぐ自殺」そして「昭和天皇崩御の当日の皇居」
について実に綿密に大胆に、しかし淡々と書かれている。
それぞれについてのコメントは差し控えるが
これらの1985年から1989年の出来事は
僕にとっては31歳から35歳までの年表の下に世相として
小さく表記されるものでもなければ直接的に関わったものでもないのだが
結婚して二人の子どもの父親となり、“ひとかど”の世帯主として
一つの人生の地点であったことは確かである。
中でも豊田商事殺害現場の“実況放送”の異様さや
岡田有希子の自殺報道の過熱ぶり、そのどろりとした憶測は印象深い。
そして当時の民営化のうねりの中で
想像を絶する巨大な組織のコマとして疲弊していった国鉄職員の
自殺がこれほど多いとは驚きであった。
この章では民営化を進める管理側と現場職員との軋轢や確執がストレスを生み、
それが自らの命を縮めた結果であるというような画一的な“勝手”な解釈ではない、
あくまで当事者個人について静かにルポしている。
世界に名だたる鉄道としての、その決定的理由は
あのダイヤに全て集約されていると言う人がいる。
あの緻密というには言葉足らずのもはや芸術的な作業の“裏”というか
きっかけは何か、というとお召し列車と大いに関係があるようなのだ。
天皇、皇后、皇太后が乗られるお召し列車には大原則が4つある。
1. 他の列車と並んで走らない。
2. 他の列車に追い抜かれない。
3. 立体交差に於いて他の列車が上を通過しない。
これらをクリアするために「スジ屋」なる専門職がある。
もちろんJRになってもそれは変わらない。
(どころか必然的にますます目は細かくなっている)
網の目のようなダイヤをぬってこのお召し列車を走らせるために
ダイヤそのものが超精度になっていったという経緯があるからだ。
そして最終章は昭和の終えんを迎えたその日の皇居前のルポ。
6つのそれぞれの「死のかたち」のうち、
最も印象的だったのが昭和天皇の崩御に際する人々の反応だった。
奇しくも国鉄職員と天皇自身の死が見えない線で
僕だけの中で繋がるという奇妙な感覚があった。
日本人とは何か、などという存在意義的な問いかけなどよりも
皇居に一人、また一人集い、記帳していく老若男女の一言が
政治や思想で説明できない“つぶやき”として厳然とそこに在る。
天皇のついての想いや解釈、印象が
これほどに個人的であることにも驚きを禁じ得ない。
ではその日、僕は何をしてどこに居たのか…
そして僕自身、何を感じたのか…
当時の自分は感情を現す言葉さえ持っていなかった気がする。

こんな形で“呼び起こされる”感覚。
まさに古本の魅力の一端がここにある。
新しい職場での僕の同僚、あるいは先輩(!)たちに
平成生まれが多いことは日常の職務には何ら影響を与えるものではない。
しかしこの章を読みながら、昭和という時代のるつぼのような状況、環境を
30年余り経験した者から見ると、
天皇の死というのはやはり一つの「時代の象徴の死」でもあったのだと
僕なりに痛感する。

テレビのコメンテーターとしてしばしばお目にかかる吉岡さんだが、
改めて「出来事を視る」仕事、「出来事を考察する」仕事、
そして「出来事を正確に伝えつつ」、「出来事に際して考える余地を作る」仕事の
難しさを本書を読んでみてつくづく感じた。
もしどこかで背表紙を見る機会があったなら是非手にとって欲しい本である。

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