「 風景(想像の海)中島 愼一 」

Category : 現代美術シッタカぶり
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2013. 10/15 → 10/26 【 galerie 16 】

個展が終ってすでに3日経ってしまったが、
中島さんの作品の(作品だけに在る)鮮烈さは相当に強烈だった。
それは誰の目にも飛び込んでくるblueであるが、
こればかりはDMに代表される4色の掛け合わせでどうにかなるものでもなく、
(すべからず全ての作品に言えることだが作家としても、
そこのジレンマは承知の上のこと…)
かといって各自の照度や輝度によってその印象を不本意に“変換”して
伝えてしまうパソコンのディスプレイでも、もうどうしようもない。
ヴィヴィッドという“例え”があるとすれば、
もしこの画面をダイレクトに“区切った”ものとしてのblueがあるとすれば、
それは単に構成上でバランスを整えただけのことであろう。
中島さんはこのblueを刷毛で描く。
印刷でも画像でも察し得ないものがそこにある。
これらの作品に決定的な印象を与えるのは
ブルーの果てにあるキャンバスだ。
それを「果て」と感じるかどうかは観客の勝手である。
少なくとも僕は近景のblueと遠景のキャンバスという関係性の中で絵を解釈している。
だから、中島さんが「違いますよ」と言っても
もはや僕にはそれ以外に“見立てる”術を持たない。

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中島さんは或る種アカデミックな現場で学生に絵を教えてこられた方である。
教える立場の建て前と、描く側の「身勝手さ」のギャップは
多分にご本人が楽しんでおられる風もある。
セオリーはセオリー、オレの描き方はオレに基づいているという、
至って簡潔なスタンスである。

このblueを、実物を見た時に受けとめる側があらかじめ持っている許容量を
もしかしたら遥かに越えてしまうかも知れない。
それほどに画面に対しての占有度は大きい。

blueの“はざま”に置かれたものは、どれも儚い。
そして朽ちて行く美しさも持ち合わせている。
ここに作家のステートメントにある
「生きている時間を止めることはできないけれど、せめて、
その時間の一部でもナニモノかに留めたいと欲するのは、
多くの人の生きる性だと思います」という一文に集約されている。
ほとんどの作品に描かれている折り鶴も、
中島さんの人生の歴史の中で欠くべからざる重要なファクターであり、
当然のように経年の果ての「崩れ行く美」という、
日本人としての感情にじんわりと訴えていくカタチがある。
僕はその「時間よ止まれ」が、このblueに思えて仕方が無いのだ。
とっぷりと塗り込められたblueな闇は、
わずかな“ボケ足”でキャンバスとの間に時間差を作る。

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スクエアな色彩の配置も、重要な意味があって
(ここで書くともったいないので皆さんで考えてみてください)
ご本人から話されるにつけ、なるほどと深く頷いてしまう。
そしてまた中島さんはこの時、ゲルハルト・リヒターの話もされた。
やはり現代美術を楽しもうと考えるとリヒターのことを
もっと知らなければと思った。

中島さんはここ一貫してこのシリーズとも言うべき作品を作り続けている。
乾燥が早いアクリルだけに短時間で仕上げると仰る中島さんだが、
描く衝動がそのまま画面に表れている。
ゆっくりと朽ちていく亡骸(なきがら)の様相を
まるでblueが記憶の中で定着させているようである。

いろいろな話をしてくださった中島さんは
実にフランクで、また決してご自分を飾らない謙虚さも持ち合わせた、
素敵な方だった。

ありがとうございました。

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↑朽ちた木の部分のアップ

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↑画面下は昔の写真を描いたもの

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