「 九鬼 みずほ “ ただの置物、絵画まで ” 」

Category : 現代美術シッタカぶり
2014.2.11〜2.16【 KUNST ARZT 】

CIMG0372.jpg

「置物」を英訳するとオーナメントになるのか、
それともフィギュアヘッドなのか、疎い僕には皆目検討もつかないけれど
この「置物」自体がもつ意味合いの曖昧さ、
そのレンジのユルさは、まるでたるんだ輪ゴムのようで
とても僕には近しいのです。

個展にはステートメントが“つきもの”としてありますが、
やはりというか、或る作家さんが言うには
何が嫌と言って、コンセプトを訊かれることが一番めんどくさいと
コメントにあって、その面倒臭さが或る種の悩み尽きまじというポイントかも
知れないなと感じたりしました。
僕は一応ブログで文章なるものをキーで叩いては書き散らかしてはいますが、
実は読解力に欠けているといつも思っては落ち込んでいます。
つまり小難しいステートメントにぶち当たる度に
自分に理解できる知識とセンス、教養がないことを痛感するわけです。
いわゆる美術的知識というやつです。
「深い思い」というものはこのやっかいな知識の裏付けによって
一般人に伝わるものと錯覚している人もまた多いと
最近とみに思うようになりました。
多分、これは己のコンプレックスの裏返しなんでしょう。

ところで、たった数行の九鬼さんのステートメントは、
とても素っ気ないものですが何回繰り返し読んでも面白いセンテンスでした。

ここにあるのは、ただの置物。
置いて並べて眺める。
彫刻にも工芸品にもなることの出来ない、ただの置物を絵画へと位置づける。
置く、見る、その「ただの置物」と言われる存在の魅力を作りたい。


「それ以下でも以上でもない」もの、それが九鬼さんのつくった
「置物」なのかも知れません。
意味も意義も求めず、“そこに在る”こと、“眺める”ことで
すでに充分に置物であるという役割を果たしているではないか、と
問うているようで、それがとても愉しいんですね。
それを「アプローチしないことでアイデンティティを確立している」と解釈しては
いけないでしょうか。
ここにある700にほど近い置物は
制約や主張といった縛りから解放された、九鬼さんから自動筆記のように
ひねり出された「無為なる造形」です。
そこに新しい、ヘンテコな、キテレツな意味付けをすることは
ここでは鑑賞者の権利と言ってよいかも知れません。
無為であるがための沈着な印象。
これだけきらびやかに飾られたそれらを見ても
僕には微塵もエキセントリックだなどとは感じられません。

タイトルにある「絵画まで」は
おそらく指先から湧き出る「造形欲」の
一種の記号化、アイコン化なんでしょうか。
いや、そんな大げさな解釈はこの際、なしにして、
九鬼さんが制作中に自のインターバルを自ら作り出しているんだと思った方が
断然面白くなります。
それが九鬼さんのバイオリズムなのかもしれません。

象形文字のようでアルファベットのような粘土の上から木炭で輪郭をとった
「絵画」は時系列として本体の「置物」とリンクしながら
独立した平面作品としての魅力を保っています。

CIMG0359.jpg

CIMG0360.jpg

CIMG0361.jpg

家にはこけしや市松人形、さまざまなコレクションがひしめきあっているようですが
僕のかつての仕事場も似た様なもので、
結局何であろうと自分の気に入ったものが、常に視覚に入るように
無秩序にレイアウトされて、
誰が何と言おうと訪問した人には申し訳ないけれど
マイワールドの押し売り状態になっています。

九鬼さんのもつ自由度、なんというか、
フリーフォームなスタンスが4行のステートメントからも
700弱の置物からも伝わってきて、
いつまで見ていても飽きませんでした。

CIMG0365.jpg

CIMG0375.jpg



スポンサーサイト

Comment

非公開コメント

58カ国語に翻訳
English
お越しいただきありがとうございます

den

………………………………………
アート・ドキュメント・ブック・
ミュージック・演劇・ダンス・
朗読・時事・ひがみ・そねみ・
やっかみ・おせっかい…
などなどシッタカぶって書きちらかしては
自己嫌悪な日々をゆらゆらと
過ごしております。
「シッタカブリアンの午睡」
「デラシネ光合成」をこのたび一本化。
言いたがり、やりたがり、ノリたがりな
のんのんとしたブログにお越しいただき
ありがとうございます。
………………………………………

ここから、また…
最近の書き散らかし…
こんなこと書いてます
こちらへもどうぞ!